全ての記録は不在を前提にしている。

昨夜、倉田さん(id:atkura)のブログで倉田さんの声ブログを聞いている時に、ふと「全ての記録は不在を前提にしている」という気持ちが湧いてきて、少し寂しくなった。特に声は、その人の(この場合は倉田さんの)存在をありありと感じさせるので、聞いている今ここにその人がいない、という事実をかえって強く意識させるのだろう。記録されているものが現実にも存在しているのであれば、別に記録を見る、あるいは、聞く、必要はないわけで、ブログというものも何ものかの不在があってこそ価値が出てくるというか・・・・。うまく言えないな・・・・・。先日引用した「失われた時を求めて」の一節にもつながる思いなのですが・・・・。失われていくものを留めようとする努力。愛惜。・・・・・あの時、ひっきりなしに散っていったイチョウの葉のように、一瞬一瞬がものすごい速さで去っていくことを感じること・・・・・まだ、自分の思いがよく分析出来ていない。・・・・ちょっとメランコリーなのかも。 こんな文章も思い出した。

それから三か月後、アテナイでオリュンピエイオンの献堂式にともなってかずかずの祝典が催された。それらはローマの儀式を想起させたが、しかしローマでは地上で行われたことが、この地では天上で行われたのであった。・・・・・わたしはポレモンに落成式の演説を依頼しておいた。・・・・ポレモンには俳優的要素がたぶんにあったが、しかし偉大な役者の表情の演技は時として群集全体の、一世紀全体のわかちもつ感情を表現するものである。序説にはいる前に彼は天に目をあげて思いを凝らし、今この時に含まれたすべての恵みを一身にとり集めるかに見えた。皇帝は時代とそしてギリシア的生活そのものと協力してきた。皇帝の行使する権威は権力というよりはむしろ人間以上の神秘的な力、しかし人間の媒介によらずしては有効に作用しない力なのである。ローマとアテナイの結婚は成就され、過去は未来に希望を見いだした。凪(なぎ)のために長い間動きがとれなかったがようやく帆に新しい風を受けて動き出す船のように、ギリシアは再出発しつつある。云々。一瞬の憂鬱がわたしの心をしめつけたのはその時だった。----わたしは成就とか完成とかいう語がそれ自体終末の観念を含むものと考えていた。おそらくわたしはすべてをむさぼり尽くす「時」にもうひとつ余分の餌食を与えたにすぎないのであろう。