ブルターク英雄伝(五)

プルターク英雄伝(四)は、一度は所持していたのですが、出張に持参した時にどこかに忘れてしまいました。残念です。それで(四)は飛ばして(五)に進みます。(五)で登場するのは次の2組です。左側がギリシア人、右側がローマ人です。

この中では、一般になじみの少ないと思われるフィロポイメーン(253-183 BC)を取り上げることにしましょう。フィロポイメーンとティトゥス・フラーミニーヌスは同時代人です。そしてプルタルコス先生がこの2人を取り上げて比較する意図は、どちらも「ギリシアに恩恵を施した人物」であるという点にあるようです。

 さてギリシャ人に施した恩恵の大きさからいうと、フィロポイメーンも、フィロポイメーンより優れた非常に多くの人々も、ティトゥスと比較する価値がない。それらの人々はギリシャ人でありながらギリシャ人に対して戦い、ティトゥスギリシャ人でなかったのにギリシャ人のために戦った。フィロポイメーンが戦争をしている自分の町*1の人々を防ぐ方策が尽きてクレーテーへ渡ったちょうどその頃、ティトゥスギリシャの真ん中でフィリッポスを撃ち破り、方々の民族とあらゆる町々に自由を与えた。このめいめいの戦闘をよく調べて見ると、ティトゥスギリシャ軍の援兵として殺したマケドニア兵の数よりもフィロポイメーンがアカイアー軍の将軍として殺したギリシャ人の数の方が多い。

    • なるほどね。では、どうしてフィロポイメーンを取り上げたのですか?
  • 「年をとってから生まれた子供が親にとってかわいいように、ギリシアが老年を迎えた時に得た大人物だったからじゃよ。」

ところでこの二人(エクデーモスとメガロファネース)は、いろいろの業績の中でも特にフィロポイメーンの養育に当り、ギリシャ全体に共通の利益のためにこの青年に哲学を仕込んだ。というのは、全ギリシャは、昔の支配者たちのさまざまな徳性を見てきたあとで、あたかも老後に生まれた子供のようにこの青年を何物にも増して愛好し、その名声と共にその勢力を高めたのである。あるローマ人はこの人を最後のギリシャ人と呼んだが、この人のあとにギリシャは一人として自分の名に値する大人物を生まなかったのである。

    • 最後のギリシア人なんですね、先生にとっては。
  • 「政治を志す者にとって参考になるような人物は、良き人物であれ悪しき人物であれそれ以降ギリシアは持つことが出来なかったんじゃ。」
    • その後のギリシアは死んでいるのですか? ギリシアがローマに征服されたことを先生はどう思われているのですか?
  • 「私は元老院議員の中にも友人が何人かいる・・・・。」
    • ・・・・・・・・。
    • フィロポイメーンはどんなことをした人です? 彼の事跡の中で目覚しいものは何なんですか?
  • 「敵対していたスパルタをアカイア同盟に参加させたことじゃろう。これによって、ギリシアは統一した政府を持つ可能性が見えてきたんじゃ。しかし、結局、それもかなわなかったが、それは彼のせいではない。」


訳者河野与一氏の注によればアカイア同盟とは

アカイアーはペロポンネーソスの北部の地方であるが、アテーナイとスパルタとが覇を争っていた間は時に従ってそのいずれかについていたけれども、両国が衰えてマケドニアの王がギリシャを支配し始めてから、前280年頃、昔の同盟を復活させて政治的自由の回復をはかり、まずデューメーとパトライ、ついでアイギオン、ブーラ、ケリュキュネイアの町々が従い、最後に前250年頃シキュオーンの将軍アラートスの尽力によってシキュオーン、コリントス、メガラ、トロイゼーン、エピダウロス、メガレーポリス、その他ペロポンネーソスの町々が加わった。これらの町は共通な議会を持って各代表者を送り、ストラテーゴス(将軍)と呼ぶ一種の総裁を選び、他に10人のデーミウルゴスを立ててその相談役とした。アカイアーの北の対岸に当るアイトーリアーにも同じような同盟が出来たが、二つの同盟は常に敵対して、アカイアー側はマケドニア王アンティゴノスおよびフィリッポスにつき、アイトーリアー側はローマにつき、結局ローマがギリシャ全土を屈服するまで続いた。

ということです。

    • フィロポイメーンの目覚しい業績はそれだけですか?
  • 「何よりも当時の人々の胸に、往古のギリシアの栄光を呼び起こさせたことがすばらしい。」

 ネメアの全ギリシャ的な祭が行われた時に、フィロポイメーンはマンティネイアの戦いで勝利を得た*2後まもなく二度目の将軍となっていて、この時祭のために*3暇が出来たので、初めて全ギリシャの人々に、身を飾った密集部隊がいつものように調子の整った軍隊の行進を速やかに力強く行って見せた。やがてキタラ*4の楽師が競演しているところへ、フィロポイメーンは兵士の上衣と紅色の下衣を着た青年たちを率いて劇場に入って来たが、いずれも体力や年頃が盛んな人々で、その指揮者に対して非常な敬意を示し、さまざまな立派な競技を済ませて自信に充ちていた。この人々が入って来たばかりの時、偶然キタラの楽師ピュラデースがティーモテオスの作った『ペルシャの人々』を演じ始めて『ギリシャのために輝かしく偉大な自由の飾りを仕上げて』と歌い出した。その声のすばらしさに応ずる作品の威厳に打たれた観衆はあらゆる方向から一斉にフィロポイメーンに眼を注ぎ、喜びのあまり拍手を送ったのは、全ギリシャ人が昔の名誉に希望をもって追いつき、詩に歌われている時代の気位に迫る元気を奮い起こしたからである。

    • すばらしい光景ですね。しかし、結局はギリシアはローマに征服されてしまったわけではないですか。
  • 「それはあの時代の流れというものじゃよ。」

 メガレーポリスの人アリスタイノスはアカイアー同盟において非常な勢力を持ち、常にローマ人の機嫌を取って、アカイアーの人々はローマ人に対抗したり忘恩であったりしてはならないと考えていたが、集会においてそれを話すのをフィロポイメーンは黙って聞きながらいやな思いをしていたけれども、とうとう立腹のあまり我慢しかねて、アリスタイノスに向い、『どうして君はギリシャの定まった運命をその目で見ようと急ぐのだ。』と言ったそうである。

    • 先生はフィロポイメーンがどのようにローマに対抗したかについては具体的に叙述されていませんね。
  • 「いまのローマとギリシアの仲に水をさすことは有益ではない。」
    • でも、私はそこを知りたいのですが。
  • 「私からはそれを得ることは出来ぬ。」


また、河野与一氏の注ですが

プルータルコスは叙述を省いた前187〜183年の間にアカイアー同盟とフィロポイメーンは一層ローマの勢力と衝突するようになって来た。

ということだそうです。

  • 「これは言っておきたい。フィロポイメーンが死んで人々が葬列を作った時、そこに参加している人々にとって、葬られようとしているのは単にフィロポイメーン個人ではなく、ギリシアの栄光そのものだという予感があっただろう、ということだ。だからこそ、人々はあれほど華々しい葬列を作ったんじゃよ。」

フィロポイメーンの遺骸は火葬にして遺骨は壺に納め、車に載せて運んだが、無秩序にいい加減にしたのではなく葬送と同時に凱旋の行列を兼ねさせた。というのは、頭に葉の環をつけた人々、しかも中には涙を流しているのも見られたし、鎖につながれて引かれていく敵の人々も見られた。その壺はあまりたくさんリボンや葉の環で飾られたためほとんど見えなくなっているのをアカイアー同盟の将軍の息子ポリュビオス*5が運び、その側にはアカイアー同盟の一流の人々がついていった。兵士たちは身に武器をとり馬に飾りをつけてこれに従った・・・・。途中の町々や村々から出て来てこれを迎えた人々は、フィロポイメーンが遠征から帰ってきたものとして挨拶し遺骨の壺に手を触れ、行列に加わってメガレーポリス*6に向かった。

プルタルコス先生にとって彼は最後のギリシアなのでした。

*1:メガレーポリス

*2:前206年

*3:祭の期間は戦争をしてはならないことになっていた

*4:手に持って奏する弦楽器

*5:後に有名な歴史家となった人、当時22歳

*6:フィロポイメーンの故国