法華経(下)

(下)の中に、私の心に、それも心のかなり深いところに、妙にひっかかる一節があります。それは妙になつかしくまた悲しい感じがします。「バイシャジヤ=ラージャの前世の因縁(=薬王菩薩本事品)」の一節です。

かの偉大な志を持つ求法者サルヴァサットヴァ=プリヤダルシャナは、そのとき詩頌を語って、完全な「さとり」に到達した阿羅漢の、かの尊きチャンドラ=スールヤ=ヴィマラ=プラバーサ=シュリー如来に、このように言った。
「いまもなお、世尊よ、あなたはこの世にいられるのですね。」

この場面に至るまでの物語はいわゆる捨身供養の話であって、ちょっと誤用され易いと感じるのでここに引用するのがためらわれます。ところで、おそらく宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に登場するさそり座の物語は、この物語に触発されたのではないかと私は思います。

 「あら、蠍の火のことならあたし知ってるわ。」
 「蠍の火ってなんだい。」ジョバンニがききました。
 「蠍がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるって、あたし何べんもおとうさんから聞いたわ。」
 「蠍って、虫だろう。」
 「ええ、蠍は虫よ。だけどいい虫だわ。」
 「蠍いい虫じゃないよ。ぼく博物館でアルコールにつけてあるの見た。尾にこんなかぎがあってそれで刺されると死ぬって先生が言ったよ。」
 「そうよ。だけどいい虫だわ、おとうさんこう言ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蠍がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見つかって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命遁げて遁げたけど、とうとういたちに押さえられそうになったわ。そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないで、さそりはおぼれはじめたのよ。そのときさそりはこう言ってお祈りしたというの。
 ああ、わたしはいままで、いくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだを、だまっていたちにくれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらんください。こんなにむなしく命をすてず、どうかこの次には、まことのみんなの幸いのために私のからだをおつかいください。って言ったというの。
 そしたらいつかさそりはじぶんのからだが、まっ赤なうつくしい火になって燃えて、よるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるっておとうさんおっしゃったわ。ほんとうにあの火、それだわ。」


宮沢賢治銀河鉄道の夜」より