老子
- 作者: 小川環樹
- 出版社/メーカー: 中央公論社
- 発売日: 1997/03/01
- メディア: 文庫
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子供から学生にかけてのころ、根拠なく、自分は孔子派よりも老子派だろうな、と思いこんでいました。中年になってから始めて老子を読んだのですが、そうしたら自分には全然しっくりこないことが分かりました。老子の書いた書物「老子」は、何言っているんだかよく分からないです。私が持っていた「ホンワカした」タオイズムのイメージは、老子の読書の中でガラガラと崩れていきました。意地の悪いオヤジだな・・・・、そんな気持ちになりました。
その中でも
天地は仁あらず。万物を以って芻狗と為す。
(天と地には仁(いつくし)みはない。それらにあっては万物は、わらでつくった狗(いぬ)のようなものだ。)
「老子」第五章
の言葉に出会った時は、よりによって古代人(老子)にいきなり唯物論的世界観を突きつけられたように思えて、夢を破られたような気がしました。やなやつ・・・そんなふうに思いました。
でも、おそらくそれは私の読みが浅いのでしょう。上の引用はこう続きます。
聖人は仁あらず。百姓を以って芻狗と為す。
(聖人にも仁(いつくし)みはない。かれにとって人民どもは、わらでつくった狗(いぬ)のようなものだ。)
これは、前の句と似たような趣旨だから、趣旨の流れとしては分かる。
しかし、その次は
天地の間は、其れ猶、槖籥(タクヤク*1)のごとき乎。虚しくして屈(つ)きず、動かせば、愈(いよ)いよ出だす。
(天と地の中間は、ちょうどふいごのようだといえるだろう。その内部はうつろであるが、尽きはてることはなく、動かせば動かすほど多く出てくる。
で、何でここでフイゴが出てくるの? と目がテンになります。もう、分からない。私には分からない。分からんぞっ!
その次は
多言なれば数(しば)しば窮まる。中を守るに如かず。
(口かずが多ければしばしば使いはたされる。心のなかにじっと保っておくにこしたことはない。)
となって終ります。
こんなけかよっ! 結局なにが言いたいんだよっ! そんなんじゃ伝わんないよっ!
というのが私の正直な読後感です。
・・・・ということで老子には疎遠になってしまいました。
それにしても気になっているのはid:Ryu-Higaさんのエントリにid:taknakayamaさんの言葉として登場する「ゼツガク」という言葉(ゼツガクと「語るべきこと」----読谷の飛行場に想う。)、これは老子の第二十章のことかしらん。
絶学無憂、唯之与阿、相去幾何
学を絶たば憂い無からん。唯と阿と、相去ること幾何ぞ。
(学ぶことをすてよ、そうすれば思いわずらうことはなかろう。「はい」というのと「ああ」というのとが、どれほどのちがいがあろう。)
違うかなあ・・・・・・
って、今、読見直したら中山さんが
id:taknakayama
比嘉さん、たぶん聞き間違えだよ。俺、「ゼツガク」って言葉知らないもの。^^
ってコメントしてあるのに気づきました。早とちりですみません。^^);
でも今の今まで、ずっと、これは老子の第二十章に違いないんだろうな、と思い込んでいました。
*1:難しい字だなあ