気になる言葉。「コロノスのオイディプス」より

このところ、ソフォクレス作のギリシア悲劇「コロノスのオイディプス」の中のセリフが気になっている。


オイディプスが1日のうちに王としての自分の誇りの根拠の崩壊を目の当たりにしたのち、つまり、自分が父親殺しであり、実の母親を妻としていた(これらは全て知らずにしたことなのだが)、ということを知ってしまったのち、彼はどうしたのか。
悲しみのあまりみずからの目をつぶした彼は、しばらくテーバイに留まっていたが、テーバイ王位を狙う息子たちに追放されてしまう。目の見えない父の放浪の旅を助けたのは2人の娘、アンティゴネーとイスメネーであった。こうして長年の諸国放浪の旅は続くが、どの国もオイディプスの穢れを怖れて長期滞在を許さない。老年になって彼は、テーセウスが治めるアテーナイの郊外の土地、コロノスにたどり着いた。


やってきたテーセウスにオイディプスは、自分の死体をアテーナイに提供したいのだ、と奇っ怪なことを言う。自分に下された神託は、自分の死体を埋めた墓はテーバイに対するその土地の守り神の役割を果たす、と告げていると言う。テーセウスは不思議に思う。どうして、アテーナイとテーバイの間に戦争が起きるのか、と。それに対してオイディプスは次のように答える。

オイディプス

  • わが友、アイゲウスの子*1よ、老年や死がないのは神々だけだ、そのほかのすべてのものは、すべての克服者たる時がついえさせてしまう。地の力も滅び、身体の力も滅びる。信義は死に、不信が萌え出でる。同じ心の友のあいだにも、国と国とのあいだにも、不動であることはけっしてない。おそかれはやかれ、娯しみは苦しみに、そしてふたたび愛に転ずる。テーバイとあなたとの間柄が今日はうるわしい日ざしの下にあったとて、数知れぬ時は数知れぬ昼と夜とを、その流れの中に生みいだして、その間に、つまらぬことから、今日の和合の誓いを槍でもってひき裂くだろう。


ソフォクレス「コロノスのオイディプス王」 高津春繁訳


途中に出てくる「ふたたび愛に転ずる」が、心にひっかかってしかたがない。普通の無常観は「おそかれはやかれ、娯しみは苦しみに転ずる。」というところで終るだろう。全てはほろびていく、と。でもソフォクレスオイディプスに「そしてふたたび愛に転ずる」と言わせている。それは何というか・・・・・・ソフォクレスの心の強さを感じさせる。

*1:テーセウスのこと