プラトン 斎藤忍随著

プラトン哲学の体系的な解説書という感じではありません。プラトン以外にもホメロスイーリアスホメロス風讃歌、ヘロドトスの歴史、などを用いて、読者を思索に誘う本です。序では、サントリーニ島の話から始まり、ミノア文明時代のこの島の大噴火がアトランティスの伝説の元になったのではないかという考古学者の説が紹介されます。そしてこう続けます。

 ロマンティックな夢を容易に見ることのできないのが現代人というものだろうが、そういう人たちを夢へとかりたてる力があるのはまず先史考古学であり、あるいは美しい風景であり、私の書き出しも、サントリンへの観光ガイドをかねた考古学的知識の披露のようになってしまった。だが私の仕事はプラトンへと読者を案内することであり、そのプラトンの著作で考古学に関係しているものと言えば、むしろ例外であり、プラトンで見なければならないのは、もちろん思想の風景である。

このようにして著者は「思想の風景」に読者を導きます。その風景とは(びっくりするのですが、哲学としては当然な)「死」そして「恋」、それから「政治」、「イデア」という風景です。

一つ一つ主題のちがう数多いプラトンの対話編のことを思っただけでも、この仕事は大変にむつかしい。しかし、とにかく案内を始めなければならない。さしあたって私は死の問題から始めよう。人は誰でも死ぬからである。


とはいえ、この本はまっすぐプラトンへは進まず、道草をしながら徐々に向かっていきます。
最初はローマのボルゲーゼ美術館にあるベルニーニ作のアポローンとダプネーの像、次にアポローンというギリシアの神の性格についての考察、もっと時代をさかのぼったホメロスイーリアスではアポローンは恐ろしい死の神ではなかったか、という話、古事記に出てくる黄泉の国の話、ギルガメシュ叙事詩オデュッセイアにおけるオデュッセウスとカリュプソーの対話・・・・などなど。それが「思想の風景」ということなのでしょう。この「死」の章にはほとんどプラトンは登場しません。登場するのはこの章の最後のところです。

 ところが、トインビーよりも遥かに早く、しかもキリスト教出現よりも遥か以前に、ホメーロスを身近に感じながら、ギリシア人でありながら、プラトンホメーロスに激しい攻撃を加えてはばからなかったのである。


ここに登場するホメロスプラトンは、この本の大きな主題のようです。この本の最終章「イデア」の結びにもこの対立する一組が登場します。

 哲学的英雄*1アポローンというこの一組は、またあらためて、戦場の英雄アキレウスアポローンという別の一組を、自然に想い出させるだろう。アキレウスは若くて美しい殺戮者であり、論理ではなく腕力で人を征する英雄であり、死をも恐れず華々しく戦場に消えるが、彼の傍からもアポローンは離れない。・・・・・
 この二組は鋭く対立する。それは言うまでもなく、プラトーンホメーロスおよび悲劇詩人との対立でもある。二つの異った秩序観、世界観の対立である。しかし、どちらの世界観も現代の人間賛美的ヒューマニズムとは関係がなく、従ってまた、その対立の激しさも真の意味では、われわれには理解しにくいのである。


私は「恋」と「政治」の章を飛ばしてしまいましたが、結局この本の根底に流れる旋律は上に引用した対立の組であるように思えます。「恋」と「政治」の章で描かれるのは、プラトンが恋(『饗宴』や『パイドロス』)や政治(主に『国家』)について展開した論理ですが、それらは結局のところホメロスに、いやむしろホメロス描くところの英雄アキレウスに、対抗するプラトンの応答として位置づけられているようです。そしてそれらの論理の自立的な運動の方向を眺めるとそのかなたには「イデア」を望み見られるのですが、その「イデア」の章の最後に再びアキレウスソクラテス、そしてそれぞれの作者としてのホメロスプラトンが提示され、その両者に同じアポローン神が関わる不思議をこの本は提示します。
そしてこの謎の前で著者による思想の風景の観光は終わり、読者各人のプラトンへの探求が始まるのでしょう。

*1:プラトン描くところのソクラテス