- 作者: 落合仁司
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1998/02
- メディア: 新書
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この本は神の「存在」を証明したわけではありません。(それだったら大ニュースです。) ただ、神が無限であるならば、数学的にどのようなことが言えるか、を数学者カントールの無限論を基礎に述べたのがこの本です。それで、この著者はこれを「数理神学」と呼んでいます。数理神学!。数学と神学を結びつけるとは、意表をつかれました。最初にこの本に出会った時はえらく興奮して、「ひょっとしたらマシンで神を模擬できるのでは」(デウス・エクス・マキナ)などと妄想してしまいました。なぜなら、数学を模擬するのがマシン(ソフトウェアからなるマシンも含む)だからです。しかし、すぐにそんなわけないことに気づきました。永遠が神の娘なら、時間は自然の娘。この世において永遠は時間の経過として実現せざるを得ず、そんなマシンがあったとしてもそれは実行するのに無限の時間がかかってしまうことになるでしょう。
さてさて本の内容ですが、基本になっているのはキリスト教神学、それも日本ではあまりなじみのないビザンチン神学(東方正教会の神学)とカントールの無限集合論です。神は(あるいは仏は)無限である、とするならば、と論理を進めているのですが、神仏の無限と、単なる数としての無限とは意味が違うだろうに、と私は最初にひっかかってしまいました。つまり神仏の無限というのはいわゆる全知全能、無限の知恵と無限の能力、という意味であり、数が単に多いだけの無限とはレベルが違うのでは、と私は思うのです。そのところに目をつぶってしまえば、あとはなかなかおもしろい議論が続きます。目次はこんな風です。
なかなか魅力的だとは思いませんか? もう少し詳しい目次は
妖しさ満載ですね。
私は、この本でビザンチン神学の一端を垣間見ることが出来たように思います。私は次のような叙述に心魅かれます。
当時の地中海世界は、政治的にはローマの統治下にあったが、知的、文化的にはギリシアの教養が支配していた。当時の知識人たる資格は、ギリシア語を学びギリシア哲学を初めとするギリシア的教養を身につけていることであった。ギリシア哲学は、当時までの人類最高の知的到達点であり、今日のわれわれが読んでもその論理は抗い難い魅力に溢れている。その地中海世界に、一介のユダヤの漁師(ペトロ)が大工の倅(イエス)は神の子だなどと言う新興宗教を布教しに来たのである。しかし世俗化の極北に生きるわれわれ現代人には想像を絶するかも知れないが、当時の地中海人わけてもギリシア哲学の教養溢れる知識人たちは、陸続としてキリスト教に改宗していった。ギリシア人にもわれわれにも愚かに見えるだろう教えが、地中海最高の知識人たちには、迫害されてでも手に入れたい、何か途方もなく素晴らしいものに見えたのである。・・・・