変容の象徴(下)

この本は1912年、ユングが37歳の時に発行されました。それからユングは4回改定を行っていますが、各版の「序」を見て面白いことに気づきました。

  • 第2版の序の日付が1924年11月、49歳の時
  • 第3版の序ではそれが1937年11月、62歳の時
  • 第4版の序では1950年9月、75歳の時

と、12年または13年ごとに改定を行っているのです。この規則性が興味を引きます。
次に、第2版の序では

この第2版で本文に手を加えなかったのは技術上の理由によるものであって、12年前にはじめて世にでた本をそっくりそのまま再版するといっても、多少の変更と訂正を行うことが望ましいと思わなかったわけではない。だがそのような訂正を行うとしても、それは細かな点にかかわるものであって、本質的な問題には触れないであろう。ここに記したわたしの意見と結論は、基本的にはこんにちも変っていない。

とあり、第3版の序でも

この版は旧版とほとんど変っていない。叙述の内容と関係のないところで、文章に多少手をいれただけである。

と書いてあって、第3版までは初版と内容はほとんど変わっていないことが分かるのですが、第4版の序では、今までの序とはトーンの変わった、ありていに言えば「不機嫌そうな」記述がなされています。そして第4版では、内容にかなりの手を加えたことが書かれています。75歳になってどういうふうにユングの心境が変化したのか・・・そこに私は興味を持ちます。

37年前に書いたこの本をぜひとも書きあらためねばならないと以前から思ってはいたのだが、職業上の責任と学者としての研究活動に追われて、このような骨も折れ愉快でもない仕事におちついてとりくめるだけのひまがとれなかった。年をとって病気をしたおかげでようやく職業の義務を解かれ、若気の過ちのかずかずを想いみるために必要な時間が与えられた。この本はできてもうれしくなかった*1。できばえにはまして満足できなかった。これはいわばわたしの頭越しに、それも医者の業務に忙殺されるなかで時間も能力もかえりみずに、書かれてしまった。材料は大急ぎで、たまたま眼にとまったものをかき集めるほかなかった。考えが熟すまでに待つことは不可能だった。抑えようとしてもとめられない山崩れのように、全体がわたしのうえになだれおちてきた。

37年前の切迫した想いを今になってやっと舌が解けて語ることが出来るようになった、というような記述です。では、この切迫した想いとは何か?・・・・それにしても75歳という最晩年になっても「ぜひとも書きあらためねばならない」と思うそのエネルギーには敬服します。

その背後にあったやむにやまれぬ衝迫の実態が意識されたのはのちのことである。それは、フロイトの息苦しいほど狭い心理学と世界観のなかに受け容れてもらえなかった心のなかみがすべて爆発したものだったのである。個人のプシュケー*2の研究におけるフロイトの並はずれた功績を貶めるつもりはないのだが、フロイトが心理現象を張りわたした概念の枠組が、わたしには狭くて堪えられないと思われたのである。・・・・わたしがいうのは、フロイトがつねにとる還元的な因果論の立場と、すべてプシュケー*3にかかわることの顕著な特徴である目的志向性のいわば完全な無視とである。

37年前にフロイトに反旗を翻さざるを得なかった状況を思い起こし、あの時、ありあわせの材料で行った反乱の仕上げをユングは行いたかったのでしょう。ここから逆にユングの心の中でフロイトがどのくらい大きな存在だったかが窺われるような気がします。


では反乱の総仕上げは出来たのでしょうか? 私には昨日も書いたようにこの本の全体像が把握できていません。いつかまた、この本と格闘することになるかもしれません。格闘しなければならない本はまだ何冊もあるのですが・・・・。


また、37歳で自分の真の出発点となった本を75歳まで繰り返し改定したということを思う時、自分も長生きしたい、そしてその時も継続して自分の仕事(儲かるかどうかは別として)をしていたい、と思うのでした。

*1:おそらくフロイトとの訣別のことを指しているのでしょう。

*2:

*3: