魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝
新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝〈1〉 (岩波文庫)
- 作者: 石原道博
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1985/05/16
- メディア: 文庫
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子供の頃から邪馬台国は九州か畿内かという話に興味がありました。若い頃はロマンのある九州説に傾いていました。結婚してから奥さんと吉野ヶ里にも行きましたので、結婚後もしばらく九州派だったようです。しかし、その後、下の本
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古代国家はいかに形成されたか 古墳とヤマト政権 (文春新書 (036))
- 作者: 白石太一郎
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 1999/04/20
- メディア: 新書
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を読んでからは、「最近の年代感では古墳時代の開始がどうも3世紀中頃までさかのぼりそう」そして「最初期古墳は大和に存在」という話が私のなかで信憑性を持ってきました。そうすると卑弥呼が死んだのは247年かその数年後なので、その頃は大和が九州より優位に立っていると思えてきました。そうすると邪馬台国は大和にあるとするのが自然と思えるようになりました。現在では私は大和派です。
この岩波文庫には隋書倭国伝も収録されています。その隋書倭国伝を見ると
邪靡堆に都す。則ち「魏志」のいわゆる邪馬台なる者なり。
と書いてあります。まさか隋の時代、つまり日本では聖徳太子の時代に都が九州であるわけがないので「邪靡堆」は「やまと」と読むべきでしょう。それが魏志倭人伝にいう邪馬台と同じだと隋書は言っているわけです。じゃあ、やっぱり邪馬台国は「やまと国」と読むべきなんでしょう。ちょっと悔しい気もしますが3世紀はじめから日本の中心は大和だったんじゃないかなと思っています。
この本は小さいながら原文写真まで載っているので、「邪馬台」が「邪馬臺」ではなくて「邪馬壹」と書かれていることを確かめることも出来ます。(これはこれで解釈に困る事実ですが、安易と言われようが通説どおり「壹」は「臺」の字を書き間違えたものと考えるしかなさそうです。「臺」は「台」の旧字体、「壹」は「一」の旧字体です。)