核時計零時1分前(つづき)

しばらくブログの更新がとどこおってしまった。
今読んでいるのは、360ページ目で1962年10月27日(土)午前6時(ワシントン時間)。とうとう暗黒の土曜日に突入した。とはいえこの本の物語は(あとがきを含めないで)587ページまで続く。

 のちに大統領特別補佐官シオドア・ソレンセンが、キューバ・ミサイル危機のさなかで「最悪の日」だったと振り返った日、のちにホワイトハウスで、”暗黒の土曜日(ブラック・サタデー)”と呼ばれるようになった日の舞台は、これで整った。10月22日月曜日の大統領演説を機に、急速に進展した事態は、またもやドラマチックなまでの急展開を見せようとしていた。危機が独自のロジックと勢いを持ちはじめたのだ。いくつもの軍が動き、戦闘機やミサイルが警戒態勢をとり、大将たちが行動を起こせと要求していた。状況が分刻みで変化していく。戦争という巨大な機械装置が動き出したのだ。世界が核対決に向かってまっしぐらに走りはじめたのである。


上に引用したのは10月26日(金)の最後のところ。それから今、読んでいるところまででもいろいろなことが起きている。アメリカの偵察船オックスフォードはキューバ近海で電波や音波を傍受している。そしてキューバの防空レーダーシステムが稼動しだしたことを探知した。別の情報源から、キューバの防空システムの各種手順がキューバのものからソ連のものに置き換わったことも分かった。その約2時間後にはカザフスタンの宇宙ロケット発射基地が核弾頭を装着したミサイルを発射するように転用された。その1時間後には、まだキューバは真夜中だというのに不安に駆られたカストロソ連大使館に向かい、駐留ソ連軍にもっと積極的な行動に出るように要請した。その30分後にソ連は北極圏で核実験を行った。そして1時間後、この核実験のデータを大気中から採るためにアラスカから米軍の偵察機U2が飛び立った。そして1時間後、フルチショフはアメリカに向けた新しい提案の文章を作成した。・・・・


キューバに持ち込まれた核の量には驚く。こんな記述がある。

 ソ連から最初に送り出された核弾頭は90発だった。

あるいはこんな記述もある。

 広島に投下された原爆2000個分に相当する核を扱うストレスが、全員に重くのしかかっていた。

まだ土曜日よりだいぶ前の月曜日のことだが、印象深いので書いておく。
アメリカでは核戦争の危険性が高まると自国にある核を疎開させることになっていたそうだ。これはある基地が攻撃でやられてもそれで使用不能になる核の数を減らすためだ。核はアメリカ全土に分散された。地方のあまり使われていないような飛行場へも、つまり核なんかどう扱ったらよいのか知らない人びとが勤務しているところへも。核を運ぶ戦闘機のうち1機が、滑走路が短いためにオーバランをしてしまったという話をこの本は紹介している。核兵器を積んだまま!

接地の直前、大尉は突然、強い追い風が吹きつけたのを感じた。そこで彼は機体を減速させるため、ドラッグシュートを作動させた。
 だが補助傘が十分に開かず、ドラッグシュートはキャニスターのなかにとどまったまま出てこない。その瞬間、ギドセン(パイロットの名前)は悟った。ミサイル倉の後部に核弾頭を搭載したこの戦闘機が、いま、短い滑走路の端に向かって猛スピードで突っ込んでいこうとしていることを・・・・・

幸いこれは大事にはいたらなかったのだが、こんな危ないこともおこっていたのだった。