形而上学(下)   アリストテレス

形而上学(上)についてはこちらを参照下さい。
形而上学(下)では、Θ(シータ)、Ι(イオタ)、Κ(カッパ)、Λ(ラムダ)、Μ(ミュー)、Ν(ニュー)、の7巻が収録されています。



Θ(シータ)の冒頭

  • さて、いままで述べてきたのは、第一義的にあるもの――あると言われる他のすべての述語がそれに帰せられるところのそれ――についてであった、すなわち実体についてであった。
    • この巻では、前の巻(Η)の論に続けて可能態と現実態についての検討がなされます。ここにはこのような言葉もあって、興味をそそります。
      • 或る一つの現実態には常に或る他の現実態が時間的に先だっている、そしてあの常に存在する第一の動かす者の現実態にいたるまで。

Ι(イオタ)の冒頭

  • 事物が「一つ」であると言われるのにも多くの意味があるということは、さきに我々が用語の諸義を区別した個所で述べたとおりである。しかし、ほかにもさらにいろいろの意味で言われるなかで、とくに最も第一義的に、そして付帯的にではなしに自体的に、事物が「一つ」であると言われるのは、要するにつぎの四つの意味においてである。
    • Ι(イオタ)では、今までの議論の流れから外れて「一」とは何か、という探求が始まります。ではなにゆえにオントロギー存在論)に――形而上学存在論と考えるならば、ですが――に「一」の論議が現れるのかですが、それは個々の存在者がそれぞれ「一つ」である、という事実から来ているのだと私は考えます。さらにギリシア語においては(英語と同じように)「冠詞」というものがあり、英語でappleとan appleが同じ意味であるように、「一」を付けても意味が同じであるのは、「一」が「存在」と同じである、という考えを導いたから、だと思います。アリストテレス母語が日本語だったら、よほど別の哲学を構築していたことでしょう。
    • さて、このようにΙ(イオタ)から別の論議が始まるので、私はΘ(シータ)までで、一つの学としての形而上学は終わっていた、と思っています。

Κ(カッパ)の冒頭

  • 知恵が原理を対象とする或る種の学であるということは、我々が諸々の原理に関する他の人々の諸説に対して難問を提起した最初の数章からして明らかである。
    • このΚ(カッパ)は奇妙な章で、Ι(イオタ)から始まった迷走が極まったかのような印象を受けます。というのは、このΚ(カッパ)を読んでいくと、その内容はΒ、Γ、Εの内容の要約であるからです。ですから、この章(の前半)には新しいことは書かれていません。この章の後半は、学者によればアリストテレスの「自然学」の抜粋・要約であるそうです。そして、このような章を書いたのはおそらくアリストテレスではなく、その弟子筋にあたる者ではないか、ということです。要するに弟子が書いた講義メモが紛れ込んだということです。
    • でも、ある意味ではこの章の前半はΒ、Γ、Εの要約になっているので、アリストテレス形而上学を手っ取り早く理解するにはこの章の前半を読めばよい、と思います。

Λ(ラムダ)の冒頭

  • この研究は、実体についてである。けだし、ここで探し求められている原理・原因は、実体のそれだからである。そして、そのわけは、もし存在するすべてが或る全体的なものであるなら、実体こそはその第一の部分だからである。
    • この章は単独で読むべき章です。学者によれば、この章はアリストテレスの早期に書かれた論文だそうです。この章の論述は他の章の論述と異なる点がありますが、アリストテレスが構想した第一哲学(つまり形而上学)の基本構想がここに現れているように見えます。アリストテレスはのちに、この章の思想から離れていくのですが、この章の思想は妖しげな魅力を放っています。その魅力の一端を紹介するため、のちにヘーゲルが自著に引用したという長い文章を引用します。冒頭の「その」は「神の」を意味しています。
      • その思惟は自体的な思惟であって、それ自らで最も善なる者をその対象とし、そしてそれが最も優れた思惟であるだけにそれだけその対象も最も優れた者である。その理性はその理性それ自身を思惟するが、それは、その理性がその思惟の対象の性を共有することによってである。というのは、この理性は、これがその思惟対象に接触しこれを思惟しているとき、すでに自らその思惟対象そのものになっているからであり、こうしてそれゆえ、ここでは理性とその思惟対象とは同じものである。けだし、思惟の対象を、すなわち実体を、受け容れうるものは理性であるが、しかし、この理性が現実的に働くのは、これがその対象を所有しているときにであるから、したがって、この理性がたもっていると思われる心的な状態は、その対象を受け入れうる状態というよりもむしろそれを現に自ら所有している状態である。そしてこの観照は最も快であり最も善である。そこで、もしもこのような良い状態に――我々はほんのわずかの時しかいられないが――神は常に永遠にいるのだとすれば、それは驚嘆さるべきことである。それがさらに優れて良い状態であるなら、さらにそれだけ多く驚嘆さるべきである。ところが、神は現にそうなのである。しかもかれには生命さえも属してる。というのは、かれの理性の現実態は生命であり、しかもかれこそはそうした現実態だからである。そして、かれの全くそれ自体での現実態は、最高善の生命であり永遠の生命である。だからして我々は主張する、神は永遠にして最高善なる生者であり、したがって連続的で永遠的な生命と永劫が神に属すると。けだし、これが神なのだから。
    • アリストテレスの美しい夢です。

Μ(ミュー)の冒頭

  • 感覚的事物の実体に関しては、我々は、そのなにであるかを、さきに自然学の研究のなかでは質料に関して、そして後には現実態における実体に関して、述べてきた。そこで、これから我々の研究するのは、果たして感覚的諸実体よりほかになにか或る不動なそして永遠的な諸実体が存在するか否か、もし存在するとすればそれはなにであるか、に関してであるが、そのためには、まず第一に、他の人々の所説を調べてみる必要がある。
    • 標的になっているのはプラトンイデア論です。イデアが数が実体と言えるのかどうかを検討し、実体ではないと結論しているようです。

Ν(ニュー)の冒頭

  • さて、このような種類の実体に関しては、これだけで述べつくされたことにしよう。ところで、あの人々はすべてその原理を、あたかも自然的事物においてのように、不動な実体に関してもまた同様に、反対のものどもであるとしている。
    • 数についての考察が述べられています。

Ν(ニュー)の、そして形而上学全体の最後

  • そして、かれらが数の生成に関して多くの苦労をしたこと、しかもそれをなんらの仕方でもまとまった説にすることができなかったということは、数学的諸対象が、かれらのうちの或る者の言っているような感覚的諸事物から離れて存するものではないということの、またそれらがこれら諸事物の原理でもないということの、証拠であると思われる。