思い出す事など 夏目漱石 (1)

今日からだらだらと、「思い出す事など」を読み進めていきたいと思います。(一度も読み通したことのないこの作品を、ブログを利用して読み通してみようと思ったのです。)
私の持っている本は子供の頃に買った

で、その時に読みたかったのは「夢十夜」ですが、今の年齢では「思い出す事など」が主要な関心事です。「思い出す事など」は、ここで全文読むことが出来ます。


「思い出す事など」は33節からなります。今日は、第1節から6節までについて書きます。


第1節

  • いきなり次の文章から始まります。

 ようやくのことでまた病院まで帰って来た。思い出すとここで暑い朝夕を送ったのももう三ヶ月の昔になる。

  • これだけでは背景が分かりませんが、読み進めていくと徐々に、かつてこの病院(注によれば千代田区内幸町の長与胃腸病院)に入院していたこと。退院してから伊豆の修善寺で療養生活を送っていたこと、そこで喀血し、その後またこの病院に再入院するはめになったこと、が理解されてきます。汽車で東京に着き、あわただしく担架に乗せられて病院に担ぎ込まれる様子がかかれています。この節で私の好きな個所は以下のところです。

汽車の中で森成さん*1が枕もとの信玄袋*2の口に挿し込んでくれた大きな野菊の枝は、降りる混雑の際に折れてしまったろう。
 釣台に野菊も見えぬ桐油哉(かな)


第2節

  • 病院について漱石が気にしていたのは長与病院の院長の病気でした。しかし院長は漱石修善寺で喀血して意識不明の重態になったのと同じ頃に重態になり、その後しばらくして亡くなっていました。漱石のまわりの人々はそれを漱石に隠していたのです。病院に帰った翌日に漱石はそのことを妻から聞いて呆然とします。漱石はこの時43歳でした。

考えると余が無事に東京まで帰れたのは天幸*3である。こうなるのが当たり前のように思うのは、いまだに生きているからのわる度胸にすぎない。生き延びた自分だけを頭に置かずに、命の綱を踏みはずした人のありさまも思い浮かべて、幸福な自分と照らし合わせてみないと、わがありがたさもわからない、人の気の毒さもわからない。

  • 漱石わる度胸と書いています。こういうところにしみじみとしてしまいます。


第3節

 ジェームズ教授*4の訃(ふ)に接したのは長与院長の死を耳にした明日(あくるひ)の朝である。

  • 私はプラグマティズムが何なのかよく分かっておらず、アメリカ流のバリバリの起業家向けの哲学のように漠然と思っていたりするのですが、漱石がウィリアム・ジェームズが好きだというのは意外なような気がしておもいろいです。

 余の病気について治療上いろいろ好意を表してくれた長与病院長は、余の知らない間にいつか死んでいた。余の病中に、空漠なる余の頭に陸離の光彩をなげ込んでくれたジェームズ教授も余の知らない間にいつか死んでいた。二人に謝すべき余はただ一人生き残っている。


第4節

  • 修善寺で療養中に、その折々の気持を断片的に書いていたことに対する言い訳めいた文章です。


第5節

  • 第4節の続きとも言える節で、療養中の暇にまかせて作った漢詩や俳句が紹介されています。

病気の時には自分が一歩現実の世を離れた気になる。ひとも自分を一歩社会から遠ざかったように大目に見てくれる。こちらには一人前働かなくても済むという安心ができ、向こうにも一人前として取り扱うのが気の毒だという遠慮がある。そうして健康の時にはとても望めないのどかな春がそのあいだから湧いて出る。この安らかな心がすなわちわが句、わが詩である。したがって、出来栄えのいかんはまずおいて、できたものを太平の記念と見る当人にはそれがどのくらい貴いかわからない。

  • こうやって書き写していると漱石の文章は平易にしてかつ明晰だと感じます。


第6節

  • この節は、はじめて読書欲が出てきた頃に東京から送ってもらった中国の古書、それも仙人に関する本、の話が登場します。この部分は若い頃読んで記憶に残っているところです。

余は寝ながらこの汚ない本を取り上げて、その中にある仙人の挿絵をいちいち丁寧に見た。・・・・・こういう頭の平らな男でなければ仙人になる資格はないのだろうと思ったり、またこういうまばらな髯を風に吹かせなければ仙人の群れに入ることはおぼつかないのだろうと思ったりして、ひたすら彼らの容貌に表われてくる共通の骨相を飽かず眺めた。

  • 子供の頃、似たような観察をしたような・・・・。

*1:森成麟造。当時、長与胃腸病院医員として、修善寺に出張し漱石の治療看護にあたった

*2:底のある布製の大ぶりの手下げ袋で、口をひもでくくるようにしたもの。

*3:てんこう おのずから与えられたさいわい。天のめぐみ。

*4:ウィリアム・ジェームズ。1842〜1910、アメリカの哲学者・心理学者。独特の経験概念を基礎に所与の世界を「意識の流れ」においてみ、世界の根本素材を「純粋経験」とよび、究極の現実を「多元的宇宙」としてとらえる「根本的経験論」をうちたて、プラグマティズムを唱導した。