思い出す事など 夏目漱石 (4)

「思い出す事など」は、ここで全文読むことが出来ます。

第18節

  • 喀血後の身体の衰弱のことが述べられています。手を上げ下ろしするのさえものすごい努力が要る状態です。


第19節

  • 第18節を受けた内容で、まず日常生活の苦を長々と悲観的に

 かく単に自活自営の立場に立って見渡した世の中はことごとく敵である。自然は公平で冷酷な敵である。社会は不正で人情のある敵である。もし彼対我の観を極端に引延ばすならば、朋友もある意味において敵であるし、妻子もある意味において敵である。そう思う自分さえ日に何度となく自分の敵になりつつある。疲れてもやめえぬ戦いを持続しながら、煢然(けいぜん)*1として独りその間に老ゆるものは、見惨(みじめ)と評するよりほかに評しようがない。

  • と述べたあと、ところが病がそのような愚痴をくつがえした、と言い

血を吐いた余は土俵の上に仆(たお)れた相撲と同じ事であった。自活のために戦う勇気は無論、戦わねば死ぬという意識さえ持たなかった。余はただ仰向けに寝て、わずかな呼吸(いき)をあえてしながら、怖(こわ)い世間を遠くに見た。病気が床の周囲(ぐるり)を屏風のように取り巻いて、寒い心を暖かにした。

  • と言います。そして、看病に来てくれた人々や、見舞いに来てくれた人々に感謝の気持を抱きます。17節の生死を巡る形而上的な、解決のつかない問題から目を転じて、生きている自分の現実世界に注目した時、その思いが沸き上がるのでしょう。そこには確かに有難い何かがあります。

余は病に謝した。また余のためにこれほどの手間と時間と親切とを惜しまざる人々に謝した。そうして願わくは善良な人間になりたいと考えた。そうしてこの幸福な考えをわれに打壊(うちこわ)す者を、永久の敵とすべく心に誓った。

  • 漱石は「永久の敵とすべく心に誓った」と書いています。はたしてその決意は健康を取り戻して従来の日常に復帰した時、生存競争の只中に帰っていった時、堅持されたのでしょうか? 堅持されたかもしれません、そうでなかったかもしれません。どちらであったとしてもそれを軽々に批評することが出来ない、なかなか難しいところの問題だと思います。

第20節

  • ロシアの文豪ドストイエフスキーの持病であった癲癇(てんかん)の発作の事が述べられています。どうしてこのことが述べられたかと言いますと、漱石は喀血の5,6日後に恍惚とした一種霊妙な気持ちを体験したためで、それをドストイエフスキーの癲癇の発作の直前の「瞬刻のために十年もしくは終生の命を賭してしかるべき性質の」歓喜の境地と比較したくなったからでした。もっとも、漱石の経験した境地はドストイエフスキーほど強烈なものではなく、東洋的な、老荘的な、のどかなもののようだったようです。


第21節

  • ドストイエフスキーもまた、一旦は死の淵に立った人でした。私などの記述より漱石自身の記述のほうが、ずっと簡潔で、ずっと心を打つので引用します。

 同じドストイェフスキーもまた死の門口(かどぐち)まで引き摺られながら、辛うじて後戻りをする事のできた幸福な人である。けれども彼の命を危(あや)めにかかった災は、余の場合におけるがごとき悪辣な病気ではなかった。彼は人の手に作り上げられた法と云う器械の敵となって、どんと心臓を打ち貫かれようとしたのである。

  • 帝政ロシアの頃のことです。ドストイエフスキーは過激派の一員とみなされて(敬虔な正教徒なのですが)、一旦は死刑の宣告を受け、その死刑(銃殺刑)がまさに行われようとした刑場で、死刑執行の中止が申し渡されたのでした。漱石もこの作品で書いていますが、その時の同じ境遇の囚人の一人は、この劇的な変化についていけず気が狂ってしまったそうです。漱石は自分の経験はドストイエフスキーの経験ほど苛烈ではないことを認めつつも、彼のこの経験を連想し、彼のこの経験を空想の中で当時反芻していたといいます。

 今はこの想像の鏡もいつとなく曇って来た。同時に、生き返ったわが嬉しさが日に日にわれを遠ざかって行く。あの嬉しさが始終わが傍(かたわら)にあるならば、――ドストイェフスキーは自己の幸福に対して、生涯感謝する事を忘れぬ人であった。

  • 死から目を転じて、生きている自分の現実世界に注目した時に見出す、有難い何物かであったのでしょう。


第22節

  • 漱石の枕元に控えている2人の看護婦たちが、時には漱石の心を読んでいるかのように、漱石にあれこれと世話をする様子が描かれています。ちょっと怪談めいた雰囲気です。

*1:孤独でたよりないさま