思い出す事など 夏目漱石 (5)

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第23節

 余は好意の干乾(ひから)びた社会に存在する自分をはなはだぎごちなく感じた。

  • で始まり

好意の干乾(ひから)びた社会に存在する自分をはなはだぎごちなく感ずるからである。

  • で終わる節です。心情的には第19節に似ていると思います。日常世間のやりとりに好意の非常に少ないのを嘆いていたが、病の重い間、その気持は消えていた、というものです。それは医者と看護婦の配慮に対して漱石が感謝していたからでした。今までは人とのやりとりの背後に義務しか見ていなかったのが、背後に好意を見ることが出来るようになったというのです。

 医師は職業である。看護婦も職業である。礼も取れば、報酬も受ける。ただで世話をしていない事はもちろんである。彼等をもって、単に金銭を得るが故に、その義務に忠実なるのみと解釈すれば、まことに器械的で、実も葢もない話である。けれども彼等の義務の中に、半分の好意を溶き込んで、それを病人の眼から透かして見たら、彼等の所作がどれほど尊とくなるか分らない。病人は彼等のもたらす一点の好意によって、急に生きて来るからである。余は当時そう解釈して独りで嬉しかった。そう解釈された医師や看護婦も嬉しかろうと思う。

  • 話の本筋から離れますが、この節には漱石ニーチェ評が出ているので引用します。

ニーチェは弱い男であった。多病な人であった。また孤独な書生であった。そうしてザラツストラはかくのごとく叫んだのである。


第24節

  • 子供の頃に見た中国の山水画の話から始まり、療養中の自然に対する親近感について述べています。


第25節

  • 漱石の子供たちが修善寺漱石のもとにかけつけます。全員娘で上から12歳、10歳、8歳です。和室の、漱石が寝ている部屋の隣の部屋に(たぶん)正座して敷居越しに漱石を見ている風景は、ああ、昔の・・・、という雰囲気があります。漱石

彼らの顔にはこの会見が最後かも知れぬと云う愁の表情がまるでなかった。彼らは親子の哀別以上に無邪気な顔をもっていた。

  • と書いていますが、実際のところどうだったんでしょうか? 少なくとも12歳の娘のほうはちゃんと状況を理解していたのではないか、と想像します。その後、東京に帰った娘たちが出した病気見舞いの手紙の内容が紹介されています。作家の子供というのは大変そうだな、と思いました。12歳の娘の手紙は候(そうろう)文で書かれていました。ちょうど今から100年前のことですが、この頃は子供でも候文を書いていたのには驚きました。

第26節

  • だんだん回復していって、胃が食べ物を受け付けるようになる経過を記しています。最初は1日50グラムの葛湯(くずゆ)でした。それがやがてその分量が多くなり、次には食欲というものを感じるようになり、葛湯が粥になりオートミールになり、というふうに健常な人々の世界に近づいていきます。

余はすべてをありがたく食った。そうして、より多く食いたいと云う事を日課のように繰り返して森成さんに訴えた。

  • 私事に引き寄せて考えると、何年か前に家族全員が同時にインフルエンザに倒れた時のことを思い出します。インフルエンザから回復する途上で、食欲というものを感じたうれしさを思い出します。

第27節

  • オイッケンという19世紀から20世紀にかけてのドイツの哲学者の主張する「精神生活」という考え方がやり玉にあげられています。注によればこの人はノーベル文学賞を取っているそうなのですが・・・・。精神生活とは義務ではなくて自分の自発性によってのみ行動する生活のことを言うようです。これに対して漱石は、それは現実に存在することがまれな空想に過ぎないと言います。

 豆腐屋が気に向いた朝だけ石臼を回して、心のはずまないときはけっして豆をひかなかったなら商売にはならない。さらに進んで、己(おの)れの好いた人だけに豆腐を売って、いけ好かない客をことごとく謝絶したらなおの事商売にはならない。すべての職業が職業として成立するためには、店に公平の灯(ともし)をつけなければならない。公平という美しそうな徳義上の言葉を裏から言い直すと、器械的と云う醜い本体を有しているに過ぎない。一分の遅速なく発着する汽車の生活と、いわゆる精神的生活とは、正に両極に位する性質のものでなければならない。そうして普通の人は十が十までこの両端を七分三分(しちぶさんぶ)とか六分四分(ろくぶしぶ)とかに交ぜ合わして自己に便宜なようにまた世間に都合の好いように(すなわち職業に忠実なるように)生活すべく天から余儀なくされている。これが常態である。

  • こう批判する漱石ですが、なぜここにオイッケンが登場したかというと、どうやら療養生活がいわゆる精神生活に近いものをお膳立てしてくれたからのようです。

大患にかかった余は、親の厄介になった子供の時以来久しぶりで始めてこの精神生活の光に浴した。

  • でも、漱石はこう書かずにはおられません。

けれどもそれはわずか一二カ月の中であった。