赤い花 ガルシン

高校生の頃(というのは32〜3年前ということですが)、いろいろな妄想や空想に苦しめられていました。そんな状態で読んだこの物語は、自分が見習うべき一つの規範のように感じられていました。


 主人公はすでに狂ってしまった人物です。舞台は帝政ロシアの末期の精神病院です。しかし、帝政ロシアだからといって、そこから連想する非人道的な扱いはこの物語の中ではあまり見られず、この物語では医師やその他の人々の態度はむしろ現代的で人道的です。だから、この人物は迫害された者としてではなく、ただ自らの狂気に苦しめられている人物として描かれています。
 彼はこの世から悪を消し去りたいと考えています。そして彼の狂った脳には、この世の悪の原因は、この精神病院の中庭に咲いている「赤いけしの花」だと思えたのでした。彼はその花を摘み取ってしまうことに大きな使命感を覚えます。そして最後にはこの花を摘み取ることに成功するのですが、彼自身も衰弱のために命を落としてしまう、というのがこの物語の荒筋です。

彼がこの花をむしりとったのは、そうした行為のうちに、自分が成しとげなければならない偉業を見たからだったのだ。はじめてガラス張りのドア越しにちらりと見たときに、真紅の花弁が彼の注意をひきつけてしまったのだ。そしてその瞬間から、この地上で彼がまさに何をしとげなければならないのか、完全にわかったように思われた。この燃え立つような赤い花こそ、この世のありとあらゆる悪が集まっているのだ。けしから阿片がつくられることを彼は知っていた。あるいはこの想念がむくむくと育ちひろがり、奇怪な形をとって、恐ろしい怪奇な幻影を生み出すように彼にしむけたのかもしれない。・・・・

「むしっちゃいけない」と年寄りのウクライナっぽうはいった、「それに花壇にも足を入れるな。ここにはおまえたち気違いがいっぱいいるんだ。みんなが一本ずつやった日には、庭を全部だめにしちまうからな」と彼は肩をつかまえたまま、諭すようにいった。
 患者はその顔をじっとながめ、黙ってその手をふりほどいて、興奮しながら小径を歩いていった。『ああ、かわいそうな奴らだ!』と彼は思った。『おまえたちには見えないのだ。あいつをかばってやるほど、おまえたちは目がくらんでいるのだ。だがおれは、どんなことがあろうとも、あいつを片づけてしまうんだ。きょうがだめならあしたこそ力くらべをするんだ。それでおれが死ぬにしても、どうせおなじことなんだ・・・・』・・・・

「ああ、ぼくにどれほどの力がいるものか、あなたがわかってくださったらなあ! どれほどの力がねえ! では失礼します、ニコラーイ・ニコラーエヴィッチ」と彼は食卓から立ち上がって、看視人の手をきゅっと握りしめながらいった、「いやごきげんよう
 「いったいどこへおいでになるんです?」看視人はにこにこしながらたずねた。
 「ほくですか? どこへもいきませんよ。ここにいますよ。けれども、もしかするとあすはお目にかかれないかもしれませんね。ご親切にしてくださってありがとうございました。」
 そういって彼はもう一ぺん看視人の手をかたく握りしめた。彼の声はふるえ、目には涙が浮かび出てきた。・・・・

 こんな身勝手な主人公なのですが、高校生当時の私はこの人物に自分を重ねていました。そしてその運命に同情していました。そして・・・・・・・・彼の身勝手な妄想における勝利に、少し・・・・・・・・羨望・・・・・・を覚えていました。私は物語の筋運びはリアリズムをひと時も離れないのに、彼の妄想における勝利を(彼の視線においてのみではあるが)確保し得たことに、そのような彼の運命に羨望したのでした。

 朝になって、人々がきてみると彼は死んでいた。彼の顔は安らかで明るかった。薄い唇と、深く落ちくぼんだ閉ざされた目をもったその衰え果てた顔つきは、何かしれぬほこらかな幸福の色を浮かべていた。彼を担架に移すとき、手を開かせて人びとは赤い花をぬき取ろうとした。だがその手はもう硬直しかけていて、彼はその戦利品を墓場の中へと持ち去ったのである。


今思えば、この物語に対する当時の私の感想はひどくナルシスティックで、危ないもののように思えます。