無題

前から欲しいと思っていた英語で書かれた専門書をGoogleで検索していたら、pdfにぶちあたった。たぶん、その本の抜粋だろうと思って見たら、なんと一冊丸ごと、たぶん400ページ以上はあるその本がpdfでネットに載っていた。正直に話すと、一度はダウンロードしてみた。ダウンロードはあっという間に終わった。どうしてネットに公開されているのだろう、著者が公開を許したのだろうか、(現に今、私が訳しているQuantitative System Performanceは、著者が公開した本だ)、いや、それにしてもこの本は出版してそれほど年が経っていないはずだが、おかしいな、と思ってそのURLのルートのほうをたどっていったのだが、そうするといきなりアラビア文字が現れてページの表示エラーで止まってしまった。この時になってURLの国コードが「.sa」であることに気付いた。調べてみると「.sa」はサウジアラビアだった。
 ここまできて、これは著者の意思とは関係なしに本が丸ごと一冊、ネット上に公開されているらしい、と思った。正直に言うとしばらくは迷った。内容をちらちらと見て、これから時間をかけて読んでいきたい、と思った。だけど一方でこれは泥棒ではないか、という思いもあった。Amazonで購入すれば8000円ぐらいはかかる。専門書はその分野に関心のある人に客層が限られるから、もともとそんなに売れるものではない。それが、どういう意図であるかは分からないが、このようなことがまかり通ったら、もっと売れなくなる。そして専門書を書く人などいなくなってしまうだろう。そう思って、そのpdfは削除した。薄気味悪い気がした。こちらの弱いところを狙って悪に加担させようとするような、そんな磁力をネットというもの自体に感じた。それは私が今まであまり感じてこなかったことだ。
 薄気味悪さの源泉の一つは私自身にある。私は以前、Factory Physicsという700ページの英語で書かれた専門書を自力で全部訳して、その訳は手元にwordファイルで所有している。これをネットに公開することは、私にその意思があれば簡単である。私は著者の著作権を尊重してそんなことはしないが、それが出来る、ということはいつも意識していた。
 著者がオープンにしたものを翻訳してネットに公開する。それは私のやってきたことであり、それは微力ながら世の中に貢献しているという気持ちを持っている。だが、著者の意に反してオープンになったらしいものを利用する、あるいは翻訳することには薄気味悪さを感じる。だが、その薄気味悪さを私はいつまで維持出来るだろうか? こういうことをあまり頻繁に見るようになったら、その感覚は麻痺してしまうのではないだろうか?



昨日の経験はもう少し掘り下げたいです。まずは、第一報ということで・・・・。