ローマは1日にして滅びず(10)

紀元1400年 ゴート族のドナウ渡河から1022年

マヌエル2世

コンスタンティノープルを首都として新たに建国されたラテン帝国は内紛が続き、長続きしませんでした。それは当時の西ヨーロッパとはまったく異なる社会を統治する技術がなかったからでしょう。一方、ローマ帝国のほうはと言いますと、あの1日だけの皇帝、ラスカリス家のコンスタンティノスと一緒にコンスタンティノープルを脱出した弟のテオドロスが、コンスタンティノープルの近くのニカイアに亡命政権を樹立します。そのほかにもいくつかの亡命政権が各地に建てられます。1261年、ニカイア帝国の将軍ミカエル・パレオロゴスは、ラテン帝国軍がたまたま出払っているコンスタンティノープルを急襲して奪回します。戦闘らしい戦闘はありませんでした。あっけなくラテン帝国は滅びました。そしてミカエルはローマ皇帝に即位します。ここにローマ帝国は復活したのでした。しかし、それはかつての強国としてではありません。弱小国家としての存在でした。それでもこの国家(もう帝国とは呼べません)はその後200年続くのです。


東のセルジューク・トルコは崩壊しましたが、その中からオスマン家が台頭し、オスマン・トルコが成立します。これは強力な対抗者でした。再建されたローマ帝国は相変わらず帝位を争う陰謀が絶えず、そのたびに帝位を狙う者たちは外国の支援を借りました。その中にはオスマン・トルコも入っていました。オスマン・トルコの力を借りたのはマヌエル2世。世が世ならば名君と言われたであろう資質の持ち主でした。しかし、力のない現状では、危険なトルコの力を借りることもあえてせざるを得ない状況だったのです。この時の支援の見返りとしてトルコのスルタン、バヤジット1世にマヌエルは臣従しなければなりませんでした。つまり、いまやローマ帝国オスマン・トルコの属国のような地位になったのでした。



1400年、時のローマ皇帝マヌエル2世はフランスに居ました。いまやローマ帝国の領土は下の図のように、わずかになっていました。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/12/Bysantti_1400.png


なぜローマ皇帝がフランスにいたかと言いますと、マヌエル2世はその少し前にトルコのスルタンへの臣従を取り消したため、トルコがコンスタンティノープルを包囲したためでした。その包囲の隙をぬってマヌエル2世は脱出し、援軍を求めてフランスにやってきたのでした。さらにはマヌエルはイングランドにも行きます。しかし、両国の国王ともはかばかしい返事をくれません。そうこうしているうちに、トルコ軍の包囲は、東からトルコに攻めてきたティムールを迎え撃つために解除されました。しかもスルタン、バヤジットがティムールに捕らえられる、という、ローマにとっては思いがけない幸運が起こったために、しばらくはトルコの侵攻が止んだのでした。マヌエル2世は帰国して、その優れた外交手腕で平和を確保します。
ローマ帝国は領土がこんなに小さくなっても、まだ、あと約50年存続したのでした。