ローマは1日にして滅びず(11)

紀元1453年 ゴート族のドナウ渡河から1075年

コンスタンティノープルの陥落

・・・・その穏やかな人柄で知られた皇帝は静かに語りかけた。
「いよいよ時は来た。・・・・・・この戦いが始まって以来今日まで、君たちは我らの信仰の敵に対して勇敢に立ち向かってきた。このたびもその勇気をみせてもらいたい。この輝かしい、あまねく知られた町、我らの故郷、すべての町の女王、もっとも輝く都市の運命を君たちの手に委ねよう。兄弟諸君、君たちはよく知っているであろう。命よりも大切にしなければならないものが四つある。第一に我らの信仰、第二に故郷、そして神に塗油された皇帝、最後に肉親や友人である。それらのうちのひとつのためでさえ我らは命を賭けて戦う。このたびの戦いにはこの四つすべてがかかっている。・・・・・・」


井上浩一著「ビザンツ皇妃列伝」より

 城門の一つが崩壊し、そこから多量のトルコ兵がなだれこんでからは、形勢は、完全に絶望的だった。・・・・・・
 塔の上にひるがえるトルコの旗を、皇帝も認めた。彼は、白馬を駆って聖ロマノス軍門まで行き、そこでなお、味方の兵たちに抵抗をあきらめないよう説くつもりだった。だが、ギリシア兵たちも、赤い旗を見ていた。総崩れだった。・・・・・
 皇帝は、打つ手がつきたのを悟るしかなかった。その彼につづいたのはわずかに三騎、ギリシアの騎士一人とダルマツィア生れの男に、スペインの貴族の三人だった。四人は、馬を捨てた。下馬してでも、闘いつづけようとしたのである。だが、周囲の混乱は、彼らに、闘うことすらあきらめさせた。皇帝の従兄弟でもあったギリシアの騎士は、捕われるよりは死を選ぶ、と叫び、敵味方の入りまじる中に斬りこんでいった。
 皇帝も、紅の大マントを捨てた。帝位を示す服の飾りも、はぎ取って捨てた。そして
「わたしの胸に剣を突き立ててくれる、一人のキリスト教徒もいないのか」
 とつぶやいたのを、誰かが耳にしたという。東ローマ帝国最後の皇帝は、剣を抜き、なだれをうって迫ってくる敵兵のまっただ中に姿を消した。他の二人の騎士も、それにつづいた。


塩野七生著「コンスタンティノープルの陥落」より


1453年、ローマ帝国は滅びました。第4回十字軍のコンスタンティノープル占領の時のような情けない滅び方ではなく、持てる力をフルに利用し、抵抗に抵抗を重ねての末の滅亡でした。難攻不落を誇ったコンスタンティノープルの大城壁は、オスマン・トルコ軍の大砲の執拗な攻撃によって破られたのでした。最後の皇帝の名前はコンスタンティノス11世パライオロゴス。前回登場したマヌエル2世の息子でした。


ということで私の「ローマは1日にして滅びず」は終わりです・・・・・・・というつもりは私にはなくて、こんな状況になってもまだ、それでもローマは滅びない、と言い続けます。この年にまだ、ローマ皇帝はもう一人存在していたからです。私が言うのは、オーストリアにいる、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世のことです。神聖ローマ帝国が、あのローマ帝国だって? という方もみえるでしょう。どうして神聖ローマ帝国古代ローマ帝国の後継者を名乗っているのか、名乗ることが出来たのか、今度は歴史をさかのぼって、そのことをご紹介します。