バガヴァッド・ギーター
- 作者: 上村勝彦
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1992/03/16
- メディア: 文庫
- 購入: 6人 クリック: 30回
- この商品を含むブログ (41件) を見る
ヒンドゥー教の聖典ということで買ったのですが、私には、読んでいてオウム真理教を連想させる個所が気になって、けっきょく読めませんでした。たぶん、私が悪いのでしょうが・・・・。
この物語は、インドの長編叙事詩「マハーバーラタ」の一部です。マハーバーラタは大変長い話らしくWikipediaには聖書の4倍の長さと書かれています。もちろん私は読んだことがありません。この岩波文庫のバガヴァッド・ギーターには「マハーバーラタ」のあらすじが載っていて、これは重宝します。そのあらすじを述べるだけでも大変なのですが、ある王国をめぐる親族たちの戦いが主題です。
この親族は2派に分かれ、ひとつがパーンダヴァ(パーンドゥの子供たちを中心とする)軍、もうひとつがカウラヴァ軍(こちらはパーンドゥの兄であるドリタラーシトラの子供たちを中心とする)軍(クル族とも呼ばれる)と呼ばれます。バガヴァッド・ギーターはこの両軍が戦闘に入る直前のところから始まります。パーンダヴァ(パーンドゥの子供)の一人であるアルジュナが、戦闘に直面して親族と戦うことに疑問を持ちます(これはきわめてまともな反応だと私は思うのですが)。
アルジュナの傍らに立つクリシュナ(その正体はきわめて強力な神であるヴィシュヌ神。ただし、彼はアルジュナに味方するものの戦闘には参加しない。戦闘の前にクリシュナに両軍の代表がそれぞれへの援助を依頼した際に、クリシュナは「自分の強力な軍隊か、あるいは非戦闘員として参加する自分か、どちらか一方を選べ」と告げ、パーンドゥ軍の代表アルジュナはクリシュナ自身を、カウラヴァ軍の代表ドゥルヨーダナはクリシュナの軍隊を選んだからです。)は、戦意を喪失したアルジュナに語って彼の疑念を解きます。この両者の哲学的宗教的対話がバガヴァッド・ギーターです。
クリシュナの言うには、人は死んでもその魂は輪廻する。だから誰をも殺したことにはならない。それよりも今戦うことはアルジュナ、あなたの義務であり、その義務を果たさないことの結果は恐るべきものだ、と言います(私の理解では)。これが私にはどうしてもオウムを連想させてしまうのです。宗教の論理は日常の論理を超えているので、誤用されると恐ろしい、と思うのです。魂の不滅を説く言葉は力強く魅力的なのですが・・・・・。クリシュナはアルジュナにこう語ります。
私は決して存在しなかったことはない。あなたも、ここにいる王たちも・・・・。また我々はすべて、これから先、存在しなくなることもない。
「私」と言っているクリシュナは神ですから「存在しなかったことはない」「これから先、存在しなくなることもない」というのは分かります。しかしクリシュナは「あなたも、ここにいる王たちも」と言います。人間もまた不滅の存在だと言うのです。
主体はこの身体において、少年期、青年期、老年期を経る。そしてまた、他の身体を得る。賢者はここにおいて迷うことはない。
この「主体」というのは魂のことのようです。この主体は死んだのち「他の身体を得る」と言います。つまり、輪廻転生です。
常住で滅びることなく、計り難い主体に属する身体は、有限であると言われる。それ故、戦えアルジュナ。
彼が殺すと思う者、また彼が殺されると思う者、その両者はよく理解していない。彼は殺さず、殺されもしない。
彼は決して生れず、死ぬこともない。彼は生じたこともなく、また存在しなくなることもない。不生、常住、永遠であり、太古より存する。身体が殺されても、彼は殺されることがない。
この個所が私にはこわい個所です。おまえが相手を殺しても相手の魂は不滅である。それゆえ殺すことを恐れてはいけない・・・・・と。・・・・・・私はどうしてもオウムの一連の事件を連想してしまいます。
さらに、クリシュナはアルジュナに王族(クシャトリア)としての義務としての戦いを説きます。
たまたま訪れた、開かれた天界の門である戦い。アルジュナよ、幸福なクシャトリアのみがそのような戦いを得る。
もしあなたが、この義務に基づく戦いを行わなければ、自己の義務と名誉とを捨て、罪悪を得るであろう。
また、こうも語ります。
あなたは殺されれば天界を得、勝利すれば地上を享受するであろう。それ故、アルジュナ、立ち上がれ。戦う決意をして。
ううっ・・・。こわい。
だから先を読むことが出来ないのです。でも・・・・・。