ローマは1日にして滅びず(12)

紀元476年、西ローマ帝国が滅びてから、都市ローマはどんなことを経験したのでしょうか? ローマは1日にして滅びず(3)で述べたようにローマは一旦、オドアケル支配下に入り、次にはテオドリック1世の東ゴート王国支配下に入ります。テオドリック1世の死後、紀元535年にユスティニアヌス1世が始めたゴート戦役によって東ゴート王国は滅ぼされ、都市ローマは再びローマ帝国の支配領域に戻ります((4)参照)。


しかしそれもつかの間、ユスティニアヌス1世の死後、ゲルマン人の一派であるランゴバルト族によってイタリアは徐々に占領されていきます。このランゴバルト族、もとはといえばユスティニアヌスが東ゴートと戦う際に傭兵としてイタリアに導き入れたものだったのですが。コンスタンティノープルを首都とする当時のローマ帝国は、東でのペルシア帝国やアラブ人(イスラム教徒)との戦いに忙殺されて、西のランゴバルトに正面から立ち向かう余裕がありませんでした。それでも655年、アラブ海軍との海戦で命からがら逃亡することが出来たコンスタンス2世の頃には、まだ都市ローマはローマ帝国支配下にありました。イタリアでローマ帝国領として残っていたのは、ローマ近辺のほかには、一時はかつての西ローマ帝国の首都であったラヴェンナ南イタリアシチリア島ぐらいのものでした。コンスタンス2世はシチリア島で暗殺されます。


このあと、紀元751年にはラヴェンナがランゴバルトにより陥落させられ、都市ローマの占領も目前に迫ってきました。都市ローマの主権を握っていたのはローマ法王です。ローマ法王ローマ帝国よりたよりになる保護者を求め、フランク王国にそれを見出しました。ここにローマ法王フランク王国の提携が始まります。


一方ローマ帝国では国教であるキリスト教について新しい運動が、皇帝レオン3世によって始められます。それは聖像破壊運動というもので、キリストやマリアを描いた絵を崇拝することを禁止する運動です。これが聖書で禁止されている偶像崇拝に当たるという解釈から、これらの絵が排除されました。このこともローマ法王ローマ帝国から離れていく一因になります。ローマ法王は聖像破壊運動に反対していました。この聖像破壊運動はローマ帝国の他の領域でも反対者が続出して不評でした。この運動はレオン3世、その子コンスタンティノス5世、レオン4世と続きます。レオン4世の死後、即位したのはまだ幼いコンスタンティノス6世でしたが、その摂政となった、レオン4世の妃エイレーネーによって聖像破壊運動は終息します。ところがこのエイレーネーがわが子コンスタンティノス6世の目をつぶして自分が皇帝になってしまいます。ローマ帝国初の女帝です。キリスト教世界は驚きました。女が皇帝だって! 当時はローマ皇帝が男性であることは自明の理だったのです。


一方、西のほうではフランク王国にカールという武勇に長けた王が現れ、ランゴバルト王国を滅ぼし、都市ローマを保護下に置きます。キリスト教世界が誰を中心であると考えるべきかが問題となってきました。