ローマは1日にして滅びず(18)

紀元1000年。オットー3世によるローマ帝国復興(1)

オットー3世は私の興味を非常にかきたてる人物です。あいにく、日本語で書かれた記述ではなかなかオットー3世の事跡の記述に出会うことがありません。もっともそれは私の探し方がわるいのかもしれませんが・・・・・。
リュドルフィング家3代目のオットー3世についてまとまった記述のある本として私が知っているのは、フェルディナンド・ザイプト著「中世の光と影(上)」

しかありません。あと、Wikipediaの「オットー3世」の項の記述は、日本語で表されたオットー3世の事跡への言及として重要なものであると私は思います。この記事を書いた人はどんな人でしょうか? 興味をそそります。


オットー3世の人となりを示す何かを書こうとして、まず第一に思い浮かぶのは、若くして死んだという事実です。享年21歳でした。病死ですが精神的打撃が彼の抵抗力を奪ったのかもしれません。次に思い浮かぶのは、彼は本気でローマ帝国の復活を考え、それを実行しようとしたことです。彼は都市ローマに恒久的な宮殿を建設し、そこから自らのローマ帝国を統治しようとしました。単にそれだけならば、政治の歴史によく現れる狂信者の一群に分類して済む話です。ところがこの若者は、自分に接する人物を、自分の理想に巻き込むようなある種のカリスマを持っていたようです。
彼はローマ皇帝理念を正しく、諸民族を越えた権威と捉えていました。彼の理想は、神の救済の計画を助けるために、キリスト教を信仰する諸民族のための一つの家をこの世に実現し、その家に属する諸民族にキリスト教徒にふさわしい生活をおくるように指導することでした。


彼は、キリスト教の修道士たちと、それも厳しい禁欲の生活を送る修道士たちと意気投合していたようでした。しかし、一方では自分の政治的計画に反抗する者たちを断罪する峻厳な支配者でもありました。そして、彼は21歳で病死してしまったのでした。
私は、この人物を捉えるのに途方にくれてしまいます。歴史に刻印された2つの強烈な意思の表現を、何とか一人の人間から発したものであると理解するために、3Dの映像を得ようとして結局、左右の目に映る像を統一して見ることが出来ないような、そのような、もどかしさを感じています。
フェルディナンド・ザイプトの「中世の光と影(上)」ではそのあたりの事情をこのように記しています。

 歴史家は何度も、2つのものを1つの個性で結びつけようと努力した。1つは、ローマの帝政*1を引き合いに、無茶なほど支配権を求める若い君主像であり、もう1つは、モンテ・ガルガノ*2のミヒャエル聖堂で、クラッセ、ペレウム、グニェズノ*3で血を流し、泣きながら贖罪するオットーである。


フェルディナンド・ザイプト著「中世の光と影(上)」より

*1:もちろん、古代ローマの帝政

*2:イタリアの地名

*3:ポーランドの地名