ローマは1日にして滅びず(17)

都市ローマの住民にとっての復活したローマ帝国

復活したローマ帝国は、理念的にはローマ法王ローマ皇帝の2つの中心を持ち、ローマ法王が宗教面をローマ皇帝が世俗面を指導し支配する、そしてローマ法王ローマ皇帝も多民族に君臨する、民族を超えた、世界的な権威である、ということになっておりました。しかし、そんな理念は実際には現実からはるかに遊離していました。都市ローマの住民にとって皇帝軍とはドイツという外国からやってきた占領軍にほかなりませんでした。

ヨハンネス12世の教皇在位時代は悲惨であった。ヨハンネスは北イタリアの支配者ベレンガーリオとの戦いで援助を得るためドイツから国王オットー1世を招き、サン・ピエトロ大聖堂でオットーに神聖ローマ帝国皇帝の帝冠を授けたが、ただちにこの行動を後悔し、新皇帝がイタリアを去るとすぐに、ベレンガーリオと交渉を開始した。そこでオットーはローマへ引き返してヨハンネス12世を廃し、自ら指名した俗人を任命して教皇レオ8世とし、ローマ市教皇座を皇帝財産として保有することをローマ市民に対して明らかにした。ローマ貴族ははるか昔から教皇座をわが物と見なしていたので、甚だしく憤慨し、服従を拒んで市民に支持を訴えて、何度も蜂起を繰り返した。
 最初の蜂起は964年1月に発生した。警鐘を合図として、テヴェレ川の彼方、教皇レオの城壁で囲まれたボルゴ地区のローマ市民は、武器をとってドイツ人皇帝オットーの軍勢を攻撃したのである。ローマ市民は撃退されてサン・タンジェロ城へ逃げ込んだ。防御柵を破壊するまでに迫った皇帝の軍勢は、もしオットー自身の介入がなかったならば、城内のローマ人全員を虐殺したことだろう。翌日、反乱指導者のローマ市民達は皇帝の前に現れて慈悲を乞うた。彼らは皇帝と教皇レオの両者に忠誠を誓うことを要求された。100名の市民が人質にとられ、他の者は恥辱のうちにローマを退去することが許された。


「ローマ ある都市の伝記」クリストファー・ヒバート著 横山徳爾訳 より


この復活したローマ帝国(のちに神聖ローマ帝国と呼ばれることになるこの帝国)は、もう帝国を欲しない都市ローマを自分の支配下に置くために多大の努力を払います。それはローマ帝国という看板を背負ってしまったことの結果なのでしょう。もっと現実を見据えていたらイタリアを支配下に置く事は困難なことであり、さらにその上にローマ帝国を建設することはもっと大変な、ほとんど不可能なことだと気づいたことでしょう。しかし、古代ローマ帝国の幻影はあまりにも魅力的で、支配階層の頭からなかなか立ち去ろうとはしなかったのです。そのうえ、歴史の気まぐれは、時にこの幻影が現実になりそうな感触を与えたりするのでした。その最初の例が次にご紹介するオットー3世の物語です。彼はオットー1世の孫にあたります。