ローマは1日にして滅びず(19)

紀元1000年。オットー3世によるローマ帝国復興(2)

私は「ローマは1日にして滅びず(18)」で、私が感じる彼の魅力をお伝えしようとして、結論に進み過ぎたきらいがありました。年代を追って記述することで、オットー3世の生涯を再構成していきましょう。
父親の皇帝オットー2世がイスラム勢力との戦いの最中、マラリアによって死去した時、オットー3世はまだ3歳でした。彼はただちにドイツ王位を継承しますが、こういう場合、皇帝が幼いので摂政が立ちます。オットー3世の母親テオファノがその役を果たします。彼女は当時の東ローマ帝国によくあったような、そのまま自分が女帝になるとか、あるいは自分の気に入った将軍と結婚して、その者に皇帝位が渡るように画策して自分は皇妃になる、といったようなことはせず、よく国王を補佐しました。ただ、残念なことに991年、オットー3世が成人するのを見ずに死去してしまいました。
彼女は東ローマ帝国の皇室の一員なので、「ローマ皇帝理念」というものをオットー3世に近侍する者たちに大いに吹き込んだ形跡があります。息子のオットー自身にもそれは受け継がれています。ここでいう皇帝理念とは、初代皇帝アウグストゥスの事跡を理想化したものというよりはむしろ、最初のキリスト教ローマ皇帝コンスタンティヌス1世の事跡を理想化したものでした。若きオットー3世の胸の内には、キリストの再降臨にそなえ、全世界を統一して主キリストを迎える準備をする世界帝国のあるじ、としての使命感が沸き立ったのでした。そして彼には、この理想に他人を引き込む不思議な魅力がありました。

 オットーの統治は7、8年と短かったが、まだことば数の少ない当時の暗黒の中にあるわずかな資料からも、皇帝がその周りに及ぼした様々な個性が見えてくる。ヨーゼフ・レッケンシュタインは彼の「個性の魔力」について語っている。実際、皇帝の「友好の天才」がなかったら、我々に知られなかったことも多かったろう。


フェルディナンド・ザイプト著「中世の光と影(上)」より


オットー3世の教師の一人でもあり、後にローマ法王シルヴェステル2世になった、フランスのオーリヤックのジェルベールは、この皇帝理念について熱烈に語っています。

 われらのもの、ローマ帝国こそわれらのもの! それに力を与えるものは、実り豊かなイタリア、戦士に満ちたガリアとゲルマーニア、そしてスキタイの強き国々も疎遠ではない。カエサルよ、ローマ人の至高なる皇帝よ*1、汝こそわれらのもの! 汝はこのうえなく高貴なギリシアの血からでて、力においてギリシア人にまさり、父祖の権利によってローマ人を統べ、精神と雄弁において両者を凌駕する。


フェルディナンド・ザイプト著「中世の光と影(上)」より


まるでローマ帝国復興の夢が現実になったかのような文章です。


このようなローマ帝国理念を抱いて、995年、16歳の若き皇帝は大軍を率いてアルプスを越えます。翌年996年には、イタリアのパヴィーア(かつてのランゴバルト王国の首都)で王国会議を開き、イタリアに対するオットー3世の支配権を確認することが出来ました。そこに都市ローマから、法王ヨハネス15世の死去の知らせと、オットー3世に後任の指名を求める要望が伝えられました。かつて勝手にローマ法王を選出してオットー1世の軍事介入を招いたこともある都市ローマの人々です。事前にうやうやしく、皇帝オットー3世の意向を尋ねるほかなかったのでしょう。彼が法王に指名したのは、自分の親族であるドイツ人ブルーノでした。都市ローマの人々は今までドイツ人を法王に戴いたことがなかったため、この決定に躊躇しましたが、オットーの率いる大軍の力を恐れ、この決定を受け容れました。ブルーノは法王グレゴリウス5世となりました。そしてオットー3世は威風堂々都市ローマに入城し、この自分の親族である法王からローマ皇帝の冠を受けたのでした。そののち、彼は例の「コンスタンティヌスの定め」を偽文書と指摘し、そうすることによって、ローマ法王ローマ皇帝を指名する権利を暗に否定しました。オットー3世は一旦、ドイツへ戻りますが、すぐに起こった反乱を鎮圧するために翌年997年、再びイタリア遠征を行い、反乱者たちを厳罰に処しました。そして彼は、もはやドイツには戻らず、ここ都市ローマに居を定める決心をしました。そして、古代ローマの皇帝たちのようにパラティーノの丘に宮殿を建設したのでした。彼は本気で古代ローマを復活させるつもりなのでした。彼の印璽には「ローマ人の帝国の復興」の文字が刻まれました。

*1:強調、CUSCUS