ローマは1日にして滅びず(20)

紀元1000年。オットー3世によるローマ帝国復興(3)

オットー3世の2人の助言者、フランス出身のオーリヤックのジェルベール(法王シルヴェステル2世)とチェコ出身のアーダルベルトの両名についてはWikipediaに説明がありました。これらを読んでいると大変、興味深いです。

一人はフランス人、もう一人はチェコ人、というところが帝国の国際性を感じさせます。


このうちの一人、プラハのアーダルベルトはプロイセンキリスト教の布教に行った際に原住民に殺されます。997年のことでした。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fd/Relikwiarz_Swietego_Wojciecha.JPG
さて、アーダルベルトの遺体は、彼の支持者であったポーランド大公ボレスラフ1世によって多額の銀と(一説には、その遺体と同じ重量の銀と)引き換えにプロイセン人から買い取りました。彼はこの聖者のような人の遺体を、そうまでして手元に置きたかったのでした。それは一つには、もちろん彼を崇拝していたからなのでしょうが、もう一つには彼の遺体を納めた教会という宗教的権威のある教会をポーランドの地に建てることにより、ポーランドの教会のドイツからの離脱を図るという政治的意図もありました。それまでポーランドの全教会はドイツのマルデブルクの大司教支配下にあったからです。
(左の写真は、グニェズノ大聖堂に納められた聖アダルベルトの聖遺物と伝えられる物です。)


紀元1000年、オットー3世はこの教会に(それはポーランドのグニェズノの地にありました)巡礼にいく決定をしました。かつての自己の助言者に祈りを捧げるためにです。聖俗の多くの臣下がこれに従いました。都市ローマからポーランドのグニェズノまでの皇帝の巡礼の行列は当時の人々に強烈な印象を与えたようです。「イエス・キリストの奴隷」と名乗る皇帝は、ポーランド大公ボレスラフ1世の宮廷を訪れ、アーダルベルトの墓所に祈りを捧げ、グニェズノに新たに大司教座を設立し、ボレスラフ1世の希望をかなえたのでした。同時に、彼に「ローマ人民の友人にして同盟者」という称号を与え、彼をこの新しいローマ帝国の同盟者と位置づけたのでした。同様な同盟関係は、かつてオットー1世と戦ったマジャール人の王国ハンガリーとも結ばれました。一方、西に目を向けると、フランスの王ロベール2世はオットー3世の助言者の一人、法王シルヴェステル2世のかつての生徒でした。このことと、ロベール2世の祖母がオットー1世の妹であることから、オットー3世はフランスに対しても影響力を保持していました。


http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/95/Aachen-cathedral-inside.jpg
その後、オットー3世とその一行は、カール大帝の眠るドイツのアーヘンに向かいました。そしてオットー3世はカール大帝墓所を開いてその中に降りていったのでした。そこで彼は何をしたのでしょうか? それについての記述を私はまだ見いだしてはいません。おそらく彼は何らかの象徴的な仕方で、カール大帝と一体になろうとしたのでしょう。


その後、オットー3世とその一行は無事に都市ローマに帰還しました。そしてまた彼は以前のようにイタリアの修道士たちと接触を持ったのでした。この年はちょうど紀元1000年、カールの戴冠から200年が経っていました。この紀元1000年はオットー3世の治世の頂点でした。