ローマは1日にして滅びず(23)

ローマは1日にして滅びず(22)」の続きです。
西のローマ帝国カノッサの屈辱の次にやってくるのは十字軍です。第1回十字軍(1096〜99年)の時には、カノッサの屈辱の当事者のひとり皇帝ハインリヒ4世はまだ生きていました。しかし、彼は十字軍には参加しませんでした。十字軍というのは元々、東のローマ皇帝アレクシオス1世がセルジューク・トルコと戦うのに援軍を西のローマ法王(当時はウルバヌス2世)に依頼したことがきっかけとなっています。東にしてみればお得意の「夷を以て夷を征する」戦略の1つのつもりでした。しかしローマ法王ウルバヌス2世は、この援助要請を拡大解釈して聖地奪還の一大運動を巻き起こしたのでした。

 この熱狂はたちまち西欧キリスト教世界のすみずみまで広がった。・・・・やがていくつもの軍団が東へと進んだ。1099年、十字軍はついに聖地を奪回、キリスト教の神の戦士たちは歓喜に満ちて略奪暴行殺人を働いた。
 この新しい時代の巨濤から、皇帝ハインリヒは完全に取り残された。今や西欧の全社会が教皇を頂点として結集しているように見え、破門された皇帝には誰も見向きもしなかった。


藤沢道郎著「物語 イタリアの歴史」の「第二話 女伯マティルデの物語」より


第2回十字軍(1147〜48年)には西のローマ皇帝は参加しています。ホーエンシュタウフェン家から出た最初の皇帝であるコンラート3世です。第3回十字軍(1189〜92年)の時にも西のローマ皇帝は参加します。ホーエンシュタウフェン家の2代目の皇帝であるフリードリヒ1世です。またの名をバルバロッサと言います。
ところで、ドイツではフリードリヒ1世が神聖ローマ帝国で最も皇帝らしい皇帝として人気があるようですが、私にはこの皇帝の偉さが分かりません。対抗勢力であるヴェルフェン家のハインリヒ獅子公を帝国追放処分にしたと言っても、それはドイツ国内のちまちました勢力争いにしか思えませんし、何度もイタリア遠征をしたと言っても、北イタリアの都市同盟であるロンバルディア同盟に最終的に敗北してしまうし、十字軍の総司令になったと言っても、遠征中に小アジア南東部のサレフ河という河で泳いでいて溺死する(1190年)ざまで、何でこんな人が人気なのか私にはよく分かりません。


ところで十字軍というのは大雑把に言うと西側が東側に対して起こした軍事活動ですが、このフリードリヒ1世バルバロッサの治世の間に、逆に東側が西に攻め込む、という事態も起こりました。それは1155年のことで、それを行ったのは「ローマは1日にして滅びず(8)」に登場した東のローマ皇帝マヌエル1世でした。当時、イタリア半島の南半分とシチリア島を領有していた両シチリア王国の内紛に介入して軍を進めたのでした。これは結局失敗に終るのですが、最初は大勝利を得て、イタリア半島奪還も夢ではない、と思える場面もありました。マヌエル2世による東側の盛り返しも彼の死(1180年)で終わり、その後の東側は国力が衰退して「ローマは1日にして滅びず(9)」でご紹介したように、第4回十字軍によってコンスタンティノープルが占領されるという事態になるのでした。


さて、上に登場した両シチリア王国では1189年、たまたま国王グリエルモ2世が36歳の若さで息子も残さずに病死するという事態が発生しました。王位継承権は彼の叔母コンスタンツァにありました。そしてこの叔母は政略結婚で、フリードリヒ・バルバロッサの息子ハインリヒ6世と結婚していました。このため西のローマ帝国イタリア半島南部を編入する可能性が出てきました。フリードリヒ・バルバロッサは前述のように翌年溺死してしまうのですが、それでも息子のハインリヒ6世はシチリア内の反対勢力を破って、シチリア王位をコンスタンツァに継承させます。しかも長年子供のなかったこの夫婦に息子が生まれるという幸運までついていました。この子供は母親からは両シチリア王国の王位を、父親からはローマ皇帝位を受け継ぐことになります。この子はフリードリヒと名づけられました。のちの皇帝フリードリヒ2世です。