ローマは1日にして滅びず(24)

フリードリヒ2世 = フェデリーコ2世

 ホーエンシュタウフェン王朝最後の大帝のことを、我が国では通常フリードリヒ二世とドイツ読みで呼ぶ。だがこの皇帝はイタリアで生まれ育ち、イタリア語で話し詩作し、イタリアを愛し、イタリアの歴史を動かし、生涯のほとんどをイタリアで過ごし、イタリアのために身を滅ぼした。その肉体に流れる血はゲルマン系ではあっても、心はイタリア人であったのだから、ここでは彼をフェデリーコと、イタリア読みで呼ぶことにしよう。


藤沢道郎著「物語 イタリアの歴史」の「第四話 皇帝フェデリーコの物語」より

私がヨーロッパ史に特に魅力を感じるのは、こういった、「国の歴史」という概念を崩してしまうような出来事に出会うことです。フリードリヒ2世のようなほとんどドイツに滞在しなかった皇帝をドイツでは自国の歴史としてどう教えているのだろう、と想像してしまいます。またイタリアの歴史の教科書にはきっとフェデリーコという名前で出ていてすっかりイタリア人扱いなんだろうな、とか・・・。現在の国境とか国籍とかを過去にさかのぼらせて歴史を記述することのウソくささとでも言えばよいのでしょうか、日本の歴史を元にして考えると見落とす視点がヨーロッパ史にはあります。



さて、幸運にも西のローマ皇帝位と両シチリア王位の両方の継承権を持って生れた彼ですが、すぐに波乱の人生を歩み始めます。彼が3歳の時、父親にしてローマ皇帝であるハインリヒ6世が病死してしまうのです。それはシチリアで起きた反乱の鎮圧に向かう途上でした。そして翌年には母親のコンスタンツァも死んでしまいます。フリードリヒのいるシチリアは反乱の最中、一方ドイツでは皇帝位を巡って別の2人が争っている状況。こんな状況に巻き込まれた幼いフリードリヒを保護したのはローマ法王イノケンティウス3世です。何もフリードリヒを哀れに思ったからではなく、彼を保護下に置くことでゆくゆくはローマ法王に従順な君主に育て上げようとの魂胆からでした。


ちょっとここで脱線ですが、これを読んで下さる方の中には、「西のローマ皇帝」と書かずにちゃんと「神聖ローマ皇帝」と書きなさい、というご意見の方もみえるかと思います。しかし、この時代、この帝国は「神聖ローマ帝国」と呼ばれてはいませんでした。何と呼ばれていたかと言えばやはり「ローマ帝国」でした。「神聖帝国」と呼ばれたこともあります。しかし、両者の合体した「神聖ローマ帝国」という名称はまだこの時代にはありませんでした。


もう1つ脱線。本家本元の東のローマ帝国(こちらは現代ではビザンツ帝国と呼ばれています)はこの頃どうだったかと言いますと、1204年、つまりフリードリヒが10歳の時に第4回十字軍によってコンスタンティノープルが占領されてしまいます。フリードリヒが成人して活躍する頃には東のローマ帝国は存在しませんでした。