ローマは1日にして滅びず(25)

1229年 フリードリヒ2世 エルサレム王位戴冠

フリードリヒ2世は天才でした。話すだけなら9ヶ国語、読み書き両方ならば7ヶ国語が出来たそうです。もともと両シチリア王国はイタリア人とともにギリシア人、アラブ人が共存する国でした。そういう背景もあってシチリア島の首都パレルモで育ったフリードリヒは特にギリシア語とアラビア語が得意でした。そして重要なことに、彼はイスラム教徒に対する偏見がなく、イスラムのほうが当時の西ヨーロッパより科学水準が上であることをよく理解していました。彼は理系の学問にも造詣が深く、イスラムの大数学者を宮廷に招こうとしたこともありました。さらに、武芸も人並み以上であり、また、生涯において、戦えば、必ず勝つ、とまではいかなくても、絶対負けない、という希代の戦略家でもありました。


後見人となっていたイノケンティウス3世が生きている間はフリードリヒ2世はおとなしくしていましたが、その死後は両シチリア王位とローマ皇帝位を確保し、都市ローマを中心とする法王領を北と南から包囲する態勢をとりました。それでも最初は法王の言うことを聞いて十字軍を率いて行きました。ところが聖地エルサレムに向かう船団に疫病が発生し、皇帝自身も病に臥せるようになったため、しかたなくイタリアに引き返します。すると皇帝の行動を前々からよく思っていなかった法王グレゴリウス9世は、引き返したとは何事と、よく理由も聞かずにフリードリヒを破門してしまいます。ところがフリードリヒの痛快なところはこの先です。


彼は病から回復すると破門されたまま十字軍を再結成してエルサレムに向かうのです。破門された十字軍! かなりパラドクシカルな存在です。当時の西ヨーロッパではカトリックの力は圧倒的でした。破門されたならば天国に行けなくなってしまうと、本気で心配する人々が大多数でした。そのため破門した皇帝に協力する将兵はあまりありません。よって前回よりずっと規模の小さい軍になりました。それでもフリードリヒはあわてることなく、エルサレムを治めていた君主(スルタン) アル・カーミルに流暢なアラビア語で手紙を書いたのです。エルサレムの君主アル・カーミルはその手紙の内容にすごく惹きつけられます。

こうしてスルタンと皇帝はアリストテレスの論理学、霊魂の不滅、宇宙の起源について互いの学識を披瀝する書簡を取り交わすことになる。
 アル=カーミルにとって聖地エルサレムは不仲の弟アル=ムアッザムの領地の一つに過ぎない。弟の謀反を抑えるにはこの地を平衡感覚に優れた大知識人のフリードリッヒに治めてもらうのに如くはない。


菊池良生著「神聖ローマ帝国」より

ウソのような話しですが、フリードリヒは一戦も交えることなく聖地エルサレムを奪還します。そして彼はエルサレム王に即位します。エルサレム戴冠式の際、破門されたフリードリヒに王冠を載せる勇気のある者は誰もおらず、しかたなくフリードリヒは自分で王冠を頭に載せました。この成果を携えてフリードリヒは帰還、彼のいない間に両シチリア王国に攻め込んでいた法王軍をたちまち撃破。法王に圧力をかけて破門を解いてもらいます。


フリードリヒが構想していたのはイタリアを統一し、皇帝を中心とする絶対主義的な体制を確立することでした。そのためにドイツでは聖俗諸侯に大幅に妥協して彼らの支持を取り付けていました。そして両シチリア王国では逆に諸侯の力をそぎ、中央集権の国家を建設していきます。そのためには官僚団がいる。ならばと、官僚を育てるためのナポリ大学を創設しました。集権的な法整備がいる。ならばと、法律家に古代のローマ法を研究させ、それをもとに体系的な成文法をまとめさせました。いよいよフリードリヒのローマ帝国は本物のローマ帝国の復興のように見えてきます。

彼は1231年、メルフィでこの新法典を公布したが、その法体制の権威の根拠をカトリック教会に求めず、古代ローマの栄光に求めた。彼はかつてローマ皇帝を包んでいた威信と栄光のすべてを、自分の周囲に復活させようとした。シチリア王国の貨幣には、宗教的な言葉やシンボルは何もなく、ただ「ローマ帝国」「正副皇帝」という円形の銘があるだけで、裏面にはローマの象徴である鷲の絵が刻まれ、それをフェデリーコ*1の名で囲んであった。この体制のもとで、皇帝は地上における神の意志の執行者であり、教皇であれ司教であれ、その意志に逆らうことは許されないのである。


藤沢道郎著「物語 イタリアの歴史」の「第四話 皇帝フェデリーコの物語」より

フリードリヒの力量が「ローマ帝国の復興」という見果てぬ夢を現実のものにしつつありました。

*1:フリードリヒ