背教者ユリアヌス(中)

(中)では早々、ユリアヌスのプラトニックな恋人になる皇后エウセビアが登場します。コンスタンティウスの妃です。ユリアヌスのほうは、哲学に夢中な純な人に描かれているのですが、エウセビアのほうは自分の権力で、ユリアヌスに恋する軽業師の一座の娘ディアを都から追放することもするような、したたかな一面のある人物に描かれています。分かりやすい悪役も配されていて、侍従長エウビウスは常にユリアヌスの失脚の機会を伺っています。このエウビウスの執念深さは常軌を逸していて、私には理解出来ません。
ユリアヌスは自分が望まぬのに、兄と同じように副帝に任命されガリア(今のフランス)に赴任します。そして今まで書物の人だったユリアヌスが短期間のうちに統治者としての、そして、司令官としての資質を表していきます。その変化がウソっぽいのですが、ほかならぬ史実がこうなのですから仕方がありません。想像するならば、ユリアヌスの哲学に向かう姿勢が従来から徹底していたので、統治技術も軍略も本質を捕捉するのがうまかった、ということでしょうか? エウビウスの悪巧みとエウセビアの遠くからのユリアヌスへの助力の両方があいまって物語を進めていきます。私にはユリアヌスがもうちょっとしっかりしてくれたら、と思いますが、この人は根っからの善人ということになっているので、しっかり出来ません。賢明ではありますがズルさが足りないのです。・・・・・おやおや、私はあまりユリアヌスを好いていないみたいですね。

ここ数ヶ月のあいだ、私は単なる哲学者から、哲学の理想を実現する統治者になろうと努力した。それはただ私がこの地上に正義というものを実現したいという願いから生れている。私がガリアにゆくのは、運命が与えたものを受身な形で受けとったからではなく、哲学が考えるこの正義を、地上に実現する機会と考えたからなのだ。そうだとすれば、たとえガリアの現状が壊滅的であり、また私の将来を暗示するように不吉な兆候が満ちあふれようと、どうしてそれに怯える必要があるのか。


「第七章 神々の導くところ」「背教者ユリアヌス(中)」より


この本とはあまり関係のない話ですが、「神々の導くところ」というと、ユリウス・カエサルルビコン川を渡る際に自分の軍団に語った言葉

  • 進もう、神々の待つところへ、われわれを侮辱した敵の待つところへ、賽は投げられた!

を思い出します。今はこちらのおっちゃんのほうが好きだ。