ローマは1日にして滅びず(28)

ルクセンブルク家の、そしてボヘミア国王にして皇帝でもある、カール4世の(神聖)ローマ帝国*1は、強大な力を持つ諸侯を何とかまとめて作り上げたガラス細工のようなもろい帝国でした。このような脆弱な帝国を以って幻影の世界帝国をうんぬんするのは気がひけますが、このあと歴史はもう一度、ハプスブルク家のカール5世の時に世界帝国の幻を見せてくれるのですから、私もがんばってそこまで記述を進めなければなりません。


さて、カール4世のローマ帝国の支柱になるのは選帝侯という、皇帝を選出する権限を持つ貴族でした。選帝侯は7名です。そして、それは3名の宗教界諸侯と4名の世俗界諸侯から構成されていました。宗教界と言ってもいずれも生臭坊主であり、その一帯の強力な領主でした。世俗界の領主との違いは、世襲ではない、ということでしかありませんでした。有力家系の次男坊三男坊がよくこの地位に就任します。宗教界の選帝侯はマインツ大司教、トリーア大司教ケルン大司教、です。ちょっとおもしろいのは、これらの都市はかつての古代ローマ帝国の時の、国境の軍団駐屯地であったということです。マインツはかつてのモゴンティアークム、トリーアはかつてのコローニア・アウグスタ、ケルンはかつてのコローニア・アグリッピナ、です。こういう細部を通してローマの伝統を継承しようとしたのでしょうか? これらの都市は今扱っている時代の(神聖)ローマ帝国の領域から考えると皆、西の方に片寄っています。


次に世俗界の選帝侯は、ボヘミア王*2ザクセン公プファルツ宮中伯ブランデンブルク辺境伯、で、これらは帝国領域内を片寄ることなく配置されています。ちなみにこれらの諸侯の中心都市を挙げておくと、ボヘミア王の拠点はプラハザクセン公のそれはドレスデンプファルツ宮中伯のはハイデルベルクブランデンブルク辺境伯のはベルリンです。南に位置するウィーンをのけ者にしているのが、ちょっと気になります。ウィーンを拠点にしていたのが、当時のカール4世の娘婿でもあったハプスブルク家のルドルフですが、彼は日本で言えば信長に似た大変なやり手で、カール4世はハプスブルク家を選帝侯に含めるのを恐れたからでした。


パワー・オブ・バランスの力作であるカール4世の帝国は残念ながらその後2代しか続きませんでした。カール4世の長男ヴェンツェルは君主の器ではなく、諸侯によって捕らえられ廃位の憂き目に会います。次男のジギスムントはもう少しまともで、当時3つに分裂していたカトリック教会を、(というのはつまり、ローマ法王を名乗る者がこの時代3人もいたからなのですが)コンスタンツに公会議を開くことによって統一する、という皇帝らしい業績を挙げるのですが、宗教改革のさきがけであるボヘミア(=チェコ)のフスを処刑してしまう(というか、カトリックの力に抗しきれずに処刑を黙認してしまう)ことによって、ボヘミアにフス戦争を引き起こしてしまいます。なによりもルクセンブルク家にとって残念だったのは、ヴェンツェルにもジギスムントにも娘はいるものの息子が生まれなかったことで、ジギスムントを最後にルクセンブルク家のローマ帝国は終わりを告げます。ジギスムントのあとを継いだのは、娘エリーザベトの夫、ハプスブルク家のアルブレヒト2世でした。しかし彼は即位後2年で死んでしまいます。当時ヨーロッパに迫ってきたオスマントルコとの戦争中に病死してしまったのです。ドイツ諸侯はアルブレヒトのまた従兄弟の、ハプスブルク家のフリードリヒ3世を皇帝に選びます。それは彼が英邁だったからではなく、とても凡庸だったからです。もう諸侯は、強力な皇帝を望みませんでした。そして選んだもうひとつの理由は、オスマントルコの防波堤になってくれいっ!、ということでした。地理的に考えて、オスマントルコに次に狙われるのはウィーンだったからです。

*1:もう、この頃には「神聖ローマ帝国」という名前が使われるようになっていました。

*2:彼だけは王号を許されています。