ローマは1日にして滅びず(30)

「戦は他国にさせておけ。幸いなるオーストリアよ。汝は結婚せよ。」
と呼ばれたハプスブルクの婚姻政策というのは、姻戚関係によってどんどん領土を増やしていった様を言います。
まずはフリードリヒ3世の息子マクシミリアンが、ブルゴーニュ家のシャルル(フリードリヒ3世にローマ王をせがんだシャルルです)が死んだあと、その唯一の跡継ぎであるマリアと結婚し、ブルゴーニュ家を継いだことです。正直なところ、いろいろ反乱が起きてそれほどすんなりとブルゴーニュ家を継いだわけではないのですが・・・・。次にマクシミリアンの息子フィリップと娘マルガレーテがそれぞれスペイン王家の王女フアナと皇太子フアン結婚します。ところが皇太子フアンが早死にしてスペインまでもハプスブルクのものになってしまいました。フィリップとフアナの間に生れたのがカール(のちの皇帝カール5世)とフェルディナント(カール5世の次の皇帝フェルディナント1世)の兄弟です。カールのほうがポルトガル王女と結婚し、カール5世の息子フェリペ2世の時にはポルトガルハプスブルクのものになります。カール5世の弟フェルディナント1世はハンガリー王女アンナと結婚し、フェルディナント1世の妹はハンガリー皇太子ラヨシュ2世と結婚します。ところがハンガリー王兼ボヘミア王に即位したラヨシュ2世がオスマントルコとの戦いで戦死したために、ハンガリー王国ボヘミア王国がフェルディナント1世のものになります。


これは多分に偶然が関与しています。スペイン王家の場合もハンガリー王家(ボヘミア王を兼ねていました)の場合も、それぞれの王家の皇太子なり君主なりが後継者を残す可能性もありました。その場合はこれらの王国はハプスブルクのものにはならなかったはずでした。それがスペイン皇太子フアンは病死し、ハンガリー王ラヨシュ2世は戦死し、どちらも後継者を残すことが出来なかったのでした。特にスペイン皇太子フアンの場合は、生き残ったハプスブルク家のフィリップにしたって若死にしています。ただ、フィリップのほうは後継者を、すなわち、カールとフェルディナントを残していたことがスペインをハプスブルクのものにする決定要因になりました。ですからハプスブルクの婚姻政策というものは、政策でも何でもなく、単なる幸運でした。ヨーロッパのさまざまな王家が同じような布石を打ちながら、ハプスブルク家ほどにその布石が日の目を見ることはなかったのでした。


さて、こうしてハプスブルクの世界帝国が生れるのですが、変なことに、これはいくつかの王国をカールとフェルディナンドで兼任していた、という状況であって、決して単一の帝国ではありませんでした。さらに、神聖ローマ帝国は法的には以前のままドイツとその周辺しか領土として認められていませんでした。たとえばフェルディナントの治めるボヘミア神聖ローマ帝国の一部ですが、同じ彼が治めるハンガリー神聖ローマ帝国の外です。また、神聖ローマ帝国内の諸侯がみな皇帝カール5世に服従していたかというと、そんなことはまるでなく、諸侯はカール4世によって認められていた諸特権によって独立国に近い状態でした。そのうえ、ルターによって始められた宗教改革が、やがて宗教戦争になったために、カールは神聖ローマ帝国内の諸侯と戦わなくてはならないはめになったのです。ただ一人の羊飼い(=皇帝)のもとにキリスト教世界を結集するはずの世界帝国は、またしても幻であることを露わにしてしまいました。同時代の多くの人々がその幻を仰いだのですが・・・・。