ローマは1日にして滅びず(31)

ハプスブルク家のカール5世についてはさまざまな本に書かれていますから、ここではあまり述べません(オットー3世の時は、ほとんど日本語の本に登場しないので、書きたくて仕方がありませんでしたが)。カール5世は1555年、55歳の時にブリュッセルで自らの退位式を行います(そう、彼は1500年生まれです)。退位出来る、というところに余裕を感じさせます。この時に彼は自分の半生を振り返って
「私はドイツへは9度、スペインへは6度、フランスへは4度、アフリカとイギリスへは2度ずつ渡り、また去った」
と述べています。その訪問先の範囲の広さにおいて、これは古代ローマ五賢帝の一人ハドリアヌスの巡幸を連想させます。ひさびさにローマ皇帝の名に負けない広域統治者の出現でした。


さて、その後はハプスブルク家はカール5世の息子フェリペ2世から始まるスペイン系と、カール5世の弟フェルディナント1世から始まるオーストリア系に分裂します。


ローマ皇帝位は、オーストリア系が継承していきます。神聖ローマ帝国カトリックプロテスタントの2陣営に分裂したままでした。この対立が1618年になって30年戦争を引き起こします。きっかけはボヘミアにおけるプロテスタントカトリックの争いが激化して、プラハ城に押しかけたプロテスタント貴族たちが、カトリックを奉ずるハプスブルク家の代官たちを城の窓から放り投げた、という事件です。ボヘミアプロテスタント貴族たちは、同じプロテスタントプファルツ選帝侯フリードリヒ5世をボヘミア王に招聘します。こうなるとフリードリヒ5世はボヘミア王としても選帝侯なわけで7名の選帝侯のうち2つを得ることになります。さらにブランデンブルク選帝侯もザクセン選帝侯もプロテスタントで、4票がプロテスタントになることになり、ここに神聖ローマ帝国カトリックハプスブルク家の手から離れる可能性が出てきました。当時のローマ皇帝フェルディナント2世は、フリードリヒ5世のボヘミア王選出の直前に即位していましたが、このボヘミアの反乱を断固鎮圧します。フリードリヒ5世の軍はあっというまに負け、フリードリヒ5世は逃亡するのですが、戦いはデンマークが介入したり、その後はスウェーデンが介入したり、最後には同じカトリックのはずのフランスが直接介入したり、で、一向に止みません。1648年、ウェストファリア条約によって戦争はやっと終結します。この条約によって神聖ローマ帝国内の全ての諸侯は主権を持つことが認められ、神聖ローマ帝国は事実上、瓦解してしまいます。


事実上瓦解しているのに、帝国は名目上まだまだ続きます。つまり「帝国」という幻がまだまだ人々の脳裏から去っていこうとしないのでした。神聖ローマ帝国が名実共に消えたのは、1806年、ナポレオン・ボナパルトの侵略を前にして、ローマ皇帝フランツ2世が解散を宣言した時でした。

朕は諸般の事情に鑑み、この帝国を解散し、朕自ら帝冠を脱ぐことを決意するものなり。

今度こそ、ローマ帝国は滅んだと言えるでしょうか?