ローマは1日にして滅びず(32)

神聖ローマ帝国は滅びましたが、オーストリア帝国が残りました。もともと神聖ローマ帝国は150年もの間、機能しておりませんでした。フランスでナポレオンが皇帝に即位した1804年、その即位式から間もない頃にハプスブルク家の当主にして神聖ローマ帝国皇帝のフランツ2世は、オーストリア皇帝を名乗ります。フランツ2世にとってはこのほうが実態に合った名称でした。ナポレオンが「フランス皇帝」を名乗ったことで、

  • 「おお、そうかっ! 別にローマ皇帝以外にも「皇帝」はあり得るんだ!」

と悟ったのでしょう。それならば、より実態に近いオーストリア皇帝を名乗っておかなければ、ということで、このように名乗ったのだと思います。


その後、1804年のアウステルリッツの3帝会戦(3名の皇帝が会戦したということで、この名が付いています。3名の皇帝とはオーストリア皇帝フランツ、ロシア皇帝アレクサンドル1世、フランス皇帝ナポレオンです。フランツとアレクサンドルが同盟を結んでナポレオンと戦ったのでした)でフランス軍が勝ったため、ドイツの西側の諸侯が一斉にナポレオンになびき始め、ライン同盟を結成して、神聖ローマ帝国を離脱します。これを見て、フランツ2世は神聖ローマ帝国を解散する決心をしたのでした。


神聖ローマ帝国の滅亡は、オスマン・トルコによるコンスタンティノープルの陥落のような劇的な事件ではなくて、単に皇帝の解散宣言の発表という、平穏のうちに行われました。ですから、そこに住む人々にとっては、滅亡前と滅亡後で日常生活が一変した、などということはなかったのです。人々の生活風景は連続していました。そうすると、まだローマ帝国が続いている、と私は言いたくなるのです。もう、古代ローマ帝国とはほとんど関係のない何物かなのですが、私は何かが古代ローマからずーっと続いている、という物語を書きたくて、ここまで書いてきました。


オーストリア帝国はその後、オーストリア・ハンガリー帝国と名前を変えて、1918年の第一次世界大戦終結まで存続しました。もう、これ以上は続きを辿りようがない、と思うのですが、まだ無理を承知で話を進めると・・・・・


1989年のことです。私は新聞のある記事を読んでビックリしました。かつてのオーストリア皇妃ツィタが死去した、というのです。記事には、第一次世界大戦で皇妃の地位を失ったが、地位の放棄に最後まで同意しなかった、と書かれていました。私にとって「第二次世界大戦」も生れる前の話です。それが「第一次世界大戦」とは。まだ、そんな人が生きていたんだ、と驚きました。ところが、そののちに、テレビの特集を見てもっと驚きました。それは「ヨーロッパ・ピクニック計画」という、ベルリンの壁崩壊のきっかけの一つになったあるイベントのことを紹介する特集でしたが、そのイベントの仕掛け人の一人が、ツィタの息子、オットー・フォン・ハプスブルクだ、と紹介されていたからです。ハプスブルク、おそるべし!」と思いました。そして、ベルリンの壁崩壊が、EUにつながっていくことを考えると、ローマ帝国の幻を、ちょっと感じてしまいます。しかしEUが世界帝国を標榜しているわけはないので、それは私の妄想だと思うのですが。


ただ、民族を超える共同体を作ろうとする試み、多様性を保ったままでの統一を維持する試み、ということでは、古代ローマの遺産がヨーロッパの人々の一つの基盤になっているのかもしれません。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1f/Otto_Habsburg_001.jpg
オットー・フォン・ハプスブルク