3 奈良の都  日本の歴史

長い間、この本を読み通すことが出来ず、私は奈良時代についてきちんとしたイメージを持つことが出来ませんでしたが、今回、歴史の表面的な流れの記述だけを読み継ぐことによって、どうにか奈良時代のイメージをつかむことが出来ました。表面的な流れ、というのは権力者に関する目だった出来事の記述です。私が読んだのは章の名前でいうと
「国家と百姓」「律令公布」「平城遷都」「あいつぐ女帝」「長屋王藤原氏」「聖武に光明」「大仏開眼」「恵美押勝」「道鏡と女帝」
で、読み飛ばしたのは
「貴族の生活」「郡司の館」「家族と村落」「村人の日々」「和同開珎」「大唐留学」「正倉院宝庫」
です。本当な、これらの章も読み飛ばさないほうがよいことは分かっているのですが、読んでいるとどうにも眠くなって・・・

このように読んでみて分かったことは、この本には文武天皇の事跡についてほとんど何も書かれていない、続く元明、元正、両女帝についてもあまり書かれていない、ということでした。この本のひとつ前の巻「2 古代国家の成立」は持統天皇が孫の文武天皇に譲位するところで終了するので、私は文武天皇の物語を期待したのでした(物語と歴史は違うということは分かっていますが)。この本の最初の部分がこのように物語性の低い記述になっているので私はいままでどうも読めなかったのでした。物語性が出てくるのは「長屋王藤原氏」あたりからです。


以下、自分のメモとして自分が把握した事柄
壬申の乱に勝利した天武天皇は、自分の経験から、皇位継承を円滑にする必要性を感じた。皇位継承の度に動乱が起きるようでは国家の資源の浪費である、と。そのために皇位継承を親から子へと定め、さらに在位中に皇太子を定めて皇位継承者を明確にしておくことを考えた。その時点での天武の考えでは皇位継承者は草壁皇子であった。しかし天武の死後、草壁皇子は若くして死に、息子として後に文武天皇になる軽皇子だけが残された。持統天皇(鵜野姫御子)は自分の孫である軽皇子皇位を継がせるべく、軽皇子が成長するまで中継ぎとして自分が即位した。そして、軽皇子が15歳になった時に譲位した。(以上、第2巻から)
ところが、また草壁皇子と同じようなことが起ってしまう。即位した軽皇子文武天皇)が25歳の若さで病死する。文武天皇の息子は首(おびと)皇子だけだった。しかも、その母親は皇族ではなく藤原不比等の娘だった。ここに後世の藤原氏の繁栄の最初のきっかけが表われる。(それにしてもこの本は藤原不比等についての記述も少ない。どのような経緯で自分の娘を文武天皇の妃にすることが出来たのだろうか。) そのため持統天皇と同じように、中継ぎとして、草壁皇子の妃だった元明天皇が即位する。この元明天皇の治世に平城京に遷都した。しかし、元明天皇は途中で政務に疲れて娘の元正天皇に譲位する。元明藤原不比等の両名があいついで没すると、政局は、皇族である長屋王不比等の息子、藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)の対決となる。この時点で元正は首皇子に譲位し、首皇子は即位して聖武天皇になる。藤原四兄弟の目的は聖武天皇の妃になっている自分達の妹、光明子に皇后の称号を得させることだ。しかし、皇族でない皇后は(伝説時代を除けば)今までなく、支配階層内での反発は大きい。長屋王はその代表格だが、天皇を呪詛したという罪を着せられ、自殺する。長屋王自殺後に光明子光明皇后の位を得、藤原氏の地位はさらに向上する。その後、天然痘が流行して藤原四兄弟もあいついで死去する。その間隙をぬって政界に登場したのは、藤原氏とは関係のない僧の玄纊と吉備真備だった。藤原宇合の子、広嗣は大宰府に左遷された。その広嗣が大宰府武装蜂起し(藤原広嗣の乱)、朝廷に対して玄纊と吉備真備の罷免を要求する。朝廷は九州に軍を派遣し、両者は対戦、藤原広嗣は捕らえられて殺される。ところが聖武天皇は、この動乱の最中に、平城京を出て、伊賀、伊勢、美濃、近江を巡るという不可解な行動に出る。ノイローゼか? 


長くなったので、今日はここまで