3 奈良の都  日本の歴史(つづき)

3 奈良の都  日本の歴史」の続きです。
藤原広嗣の乱の最中に都を飛び出して、群臣を引き連れて、あちこちをさまよった聖武天皇は遷都を繰り返す。幸い乱はすぐに収束したが、繰り返される遷都も国を疲弊させる元である。まずは、山背(やましろの)国相楽郡に恭仁宮(くにのみや)を作らせて遷都した。次に近江の国甲賀郡紫香楽宮(しがらきのみや)を作らせて遷都。次には難波宮に遷都し、紫香楽宮に戻り、それから平城京に戻った。以上が4年半のうちに起こった。
聖武天皇は、祖父草壁皇子や父文武天皇のように早死にすることはなかったが、皇統を継ぐべき男子に恵まれなかった。男子は生まれることには生まれたのだが、早世してしまった。そのために娘の阿部内親王を皇太子にした。女性の皇太子は前代未聞。群臣たちの反対も根強い。こんな状況下で仏教に深く帰依する聖武天皇は各国に国分寺国分尼寺を建てさせ、都には東大寺大仏殿を作らせた。749年、大仏に塗る金が陸奥から発見されたという知らせを瑞祥として取り上げ、これを名目に聖武天皇は譲位して阿部内親王が即位し孝謙天皇となった。東大寺大仏開眼会(え)は、太上天皇となった聖武の生涯のハイライトだろう。この頃政界に台頭してきたのが藤原武智麻呂の子、藤原仲麻呂と、葛城王臣籍降下してなった橘諸兄の子、橘奈良麻呂だった。
太上天皇聖武は死ぬ前に孝謙天皇に対して、次の天皇には道祖(ふなどの)王を立てるように遺言した。一旦はそれに従った孝謙であったが、父聖武が死ぬと、道祖王の不行跡を理由に皇太子を大炊(おおいの)王に変更した。それから密告が相次ぎ、橘奈良麻呂の反乱計画が明らかになった。奈良麻呂は刑死し藤原仲麻呂の天下となった。彼は官職名を唐風に変更する。孝謙天皇が譲位し大炊王淳仁天皇として即位する。彼は仲麻呂の影響下にあり、仲麻呂恵美押勝(えみのおしかつ)の名を与える。しかしやがて光明皇太后が逝去すると恵美押勝こと藤原仲麻呂の権勢が下り坂になる。
平城宮を改造するために、孝謙淳仁がともに琵琶湖南端の保良宮に移った際、孝謙太上天皇は病気になり、そこで看病禅師の道鏡と出会う。道鏡に傾倒する孝謙淳仁が苦言を呈すると、孝謙は怒り、国事裁量権を自分に取り戻すと宣言。両者が対峙する中で藤原宿奈麻呂(すくなまろ)を中心とする仲麻呂暗殺事件が発覚。危機感を強めた仲麻呂が兵を動員しようとすると、それを察知した孝謙側は兵を遣わして淳仁から天皇御璽を回収し、仲麻呂の軍をやぶり、仲麻呂を殺した。仲麻呂が変更した官職名は元に戻され、淳仁は淡路島に流され、孝謙が復位して称徳天皇となった。それとともに道鏡が大臣禅師となり、政界に進出。この時期、称徳天皇は多くの皇族を処罰した。宇佐八幡宮から「道鏡天皇にすれば天下が太平になるであろう」との神託がおりたとの報告があり、その確認のために和気清麻呂宇佐八幡宮に派遣される。和気清麻呂は神から「天つ日嗣には、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」とのお告げを聞いたと報告した。このため和気清麻呂道鏡によって処罰され流罪になった。この事件後半年のうちに称徳は後継者を指名することなく病死する。道鏡は同時に没落する。

この本の登場人物のうち一番印象に残ったのが聖武天皇。反乱の最中に「朕は思うところあって、今月末、しばらく関東(不破の関鈴鹿の関の東側の意)にゆく。いまはその時機ではないのだが、止むをえない。将軍らはこれを知って驚かないように」と宣して都を離れるとは、無責任な振る舞いで、その一方で、朕は三宝の奴、などと言って仏教にひれ伏しているのですから、なかなか困った人物です。孝謙天皇も印象深いですね。