エジプトと聖書(2)

エジプトと聖書」の続きです。

エジプトと聖書 聖書の考古学 (5)

エジプトと聖書 聖書の考古学 (5)

前回のあとエレミアについて調べたところ、エレミアはバビロン捕囚の頃の人でした。そのため、前回引用した部分の前半のエレミアに関する部分は、「エジプト側の資料は乏しくてあまり明らかではない。・・・・」で始まる後半の部分よりあとの時代ということになります。というのは、これらの出来事はバビロン捕囚以前の出来事だからです。ですから、ここでは前半のエレミアに関する部分は除いて、後半の内容を検討していきます。

ホセアはサルマナザル五世[アッシリア王、727-722頃]に打ち破られるとすぐに、(列王紀下一八・三によると)エジプト王セウェに心ならずも伝言を送ることを考えた。この名前は列王紀には記されていない。


「エジプトと聖書」の「第一部 王と場所」の「第三章 ダビデからエレミアへ」より

まず、上で「列王紀下一八・三によると」とありますが、これは「列王紀下一七・三によると」の間違いです。原著の間違いなのか、あるいは翻訳時に紛れ込んだ間違いなのかよく分かりませんが・・・・。列王紀下一七・三-四をみるとこう書かれています。

アッスリアの王シャルマネセルが攻め上ったので、ホセアは彼に隷属して、みつぎを納めたが、アッスリアの王はホセアがついに自分にそむいたのを知った。それはホセアが使者をエジプトの王ソにつかわし、また年々納めていたみつぎを、アッスリアの王に納めなかったからである。そこでアッスリアの王は彼を監禁し、獄屋につないだ。



「列王紀下 一七・三-四」より

ホセアはイスラエルの王です。この時期のユダヤ人はちょっとややこしくて、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂していました。そして現在のイスラエルの首都であるエルサレムは、ややこしいことに当時はユダ王国の首都でした。当時のイスラエル王国の首都はサマリアというところだったそうです(Wikipediaの「イスラエル王国」を参照しました)。さて、上の聖書、列王紀下の記述が示しているのは、北のイスラエル王国が一旦はアッシリアに攻められて服属したが、のちにその「くびき」を脱しようとしてエジプトの援助を要請した、しかし、それはアッシリアの知るところとなって、ホセアは捕らえられた、ということでしょう。
さて、上に示した「エジプトと聖書」からの引用文には、気になるというか、私には理解できない記述があります。それは「この名前は列王紀には記されていない。」というところです。上に引用した列王紀下一八・四にはその名前を「ソ」と書かれています。そしておそらく「ソ」と「セウェ」は同じ名前に由来する表記でしょう。それなのになぜ「この名前は列王紀には記されていない。」と書くのでしょうか? 「ソ」という名前は書かれているが「セウェ」という名前は書かれていない、ということなのでしょうか? ここでは疑問を提示するに留めて、次に進みます。


サルマナザル5世の在位年代が紀元前727〜722年とあるので、クセジュ文庫の「古代エジプト

に載っている年表で、その当時のファラオを調べてみました。すると、同じ年代の2名のファラオが存在します。

  • 第24王朝 テフンアクフト(730〜720)
  • 第25王朝(またの名をエチオピア朝) ピアンキ(751〜716)

です。これはどういうことかというと、このころエジプトは北部と南部に分裂していたということだそうです。そうだとすると「エジプトと聖書」の次の箇所も理解がし易くなります。

サルゴン[二世、アッシリア王、722-706]の年代記は、セウェは一介の将軍にすぎなかったとわれわれに明かす。当時真のファラオは存在しなかった。



「エジプトと聖書」の「第一部 王と場所」の「第三章 ダビデからエレミアへ」より

この頃の状況をクセジュ文庫「古代エジプト」の記述で見ていきます。

この人物(=ピアンキ)が南部を離れて、エジプトを征服しようと試みてゆく。国土の他の端、デルタ地内では、サイス公テフンアクフトが周辺国家の統一を再現し始めていた。だが彼は、残虐な征服によってでなく、むしろ説得することによって仕事を進めたもののようだ。(中略)こうして下部*1エジプトを統一したテフンアクフトは、中部エジプトに浸透し、そこで南部から出てきたピアンキと衝突することになるのである。
(中略)彼(=ピアンキ)がテフンアクフト及び中部エジプト諸侯を追い返して、メンフィスを奪還したことがどんなに真実らしくとも(中略)テフンアクフトが、いわゆるエチオピア征服後何年間もデルタ地内に、なお主人公として残留していたという証拠をも有するのである。それはともかく、テフンアクフトは第24王朝の創設者であるが、この王朝はテフンアクフトボッコリスとの二王しか持っていない。この王朝は、ピアンキが第25王朝あるいはエチオピア王朝として南部に君臨している時、北部に君臨しているもので、その権力はたぶんメンフィスまで及んでいたろう。第24王朝と第25王朝とは並存しており、その合一は成立しえなかった。



古代エジプト」より

残念ながらここに「セウェ」あるいは「ソ」というエジプト人の名前は登場しません。ただ、当時のエジプトが混乱期であったというのは確かなようです。

*1:下部とは北部のこと