エジプトと聖書(3)

エジプトと聖書(2)」の続きです。

 エジプト語によるいかなる資料も、天使により阻止された、701年のセナケリブ[サルゴン二世の息子、706-681]の計画に言及していない(列王紀下一九・三五、歴代志下三二・二一)。ヘロドトス[ギリシャの歴史家、484-420頃]はかれなりにこの物語を語る。


「エジプトと聖書」の「第一部 王と場所」の「第三章 ダビデからエレミアへ」より

「(紀元前)701年の(アッシリア王)セナケリブの計画」というのは、アッシリアエルサレムを攻め取ろうとしたことを言っています。それが「天使により阻止された」というのは、奇跡的にそれが中止されたからです。まず列王紀下一九・三五を見ておきます。

その夜、主の使いが出て、アッスリアの陣営で十八万五千人を撃ち殺した。人々が朝早く起きて見ると、彼らは皆、死体となっていた。アッスリアの王セナケリブは立ち去り、帰って行ってニネベにいたが、その神ニスロクの神殿で礼拝していた時、その子アデランメレクとシャレゼルが、つるぎをもって彼を殺し、ともにアララテの地へ逃げて行った。



「列王紀下 一九・三五-三七」より

この出来事を

現代人は、セナケリブの逃走は疫病が原因であると散文的に説明する。


「エジプトと聖書」の「第一部 王と場所」の「第三章 ダビデからエレミアへ」より

わけです。次に歴代志下三二・二一も見ておきます。

そこでヒゼキヤ王およびアモツの子預言者イザヤは共に祈って、天に呼ばわったので、主はひとりのみ使いをつかわして、アッスリア王の陣営にいるすべての大勇士と将官、軍長らを滅ぼされた。それで王は赤面して自分の国に帰ったが、その神の家にはいった時、その子のひとりが、つるぎをもって彼をその所で殺した。


「歴代志下 三二・二一」より

文中に登場するヒゼキヤ王はユダ王国の王です。もうこの時点では北のイスラエル王国アッシリアによって滅ぼされていました。それは、「エジプトと聖書(2)」に登場したイスラエル王ホセアの時です。

・・・・アッスリア王シャルマネセルはサマリアに攻め上って、これを囲んだが、三年の後ついにこれを取った。サマリアが取られたのはヒゼキヤの第六年で、それはイスラエルの王ホセアの第九年であった。


「列王紀下 一八・九-一〇」より

文中のサマリアイスラエル王国の首都です。そして今度はユダ王国のほうを滅ぼそうとしたわけです。

ヒゼキヤ王の第十四年にアッスリアの王セナケリブが攻め上ってユダのすべての堅固な町々を取ったので、


「列王紀下 一八・一三」より

その口実は、ユダ王国がエジプトと同盟を結んだことらしいです。アッシリア王セナケリブの使者ラブシャケはエルサレムにやってきてユダ王国の高官達の前でこう言います。

・・・・「ヒゼキヤに言いなさい、『大王、アッスリアの王はこう仰せられる。・・・・あなたは今だれにたよってわたしにそむいたのか。今あなたは、あの折れかけている葦のつえ、エジプトを頼みとしているが、それは人がよりかかる時、その人の手を刺し通すであろう。・・・・あなたはエジプトを頼み、戦車と騎兵を請い求めているが、わたしの主君の家来のうちの最も小さい一隊長でさえ、どうして撃退することができようか。・・・・・・』


「列王紀下 一八・一九-二四」より

では、その時、エジプトはユダ王国を助けるために軍を派遣していたのでしょうか? ところが、このあたりの記録がエジプトにはないようです。しかし、この事件よりあとの時代のギリシアの歴史家ヘロドトスは、この事件に関係するとおもわれる伝承を記録していました。それによれば、エジプト王は軍を率いて、アッシリア軍と対峙していたようです。


長くなりましたので、今日はここまでで。