- 作者: 北山茂夫
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2004/08/01
- メディア: 文庫
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称徳女帝が亡くなった770年から村上天皇が亡くなる967年までの約200年間をカバーしています。前巻の「3 奈良の都」が約70年だったので、それに比べればいろいろなことが起きていて、要約するのが難しいです。まず最初の70年間を何とか要約してみましょう。
称徳女帝の死(770年)で天武天皇の系統が死に絶え、天智天皇の系統の光仁が老齢で即位する。彼は称徳時代に吹き荒れた粛清を、酒に溺れているふりをして逃れたのだった。光仁天皇は称徳女帝の異母妹である井上内親王を妃としており、その妃から生れた他戸(おさべ)親王を皇太子にした。しかし、政治的陰謀により妃と他戸親王は殺される。こうして次に皇太子になったのが山部(やまべ)親王、のちの桓武天皇である。老齢の光仁天皇はやがて桓武天皇に譲位するが、その際、皇太子には桓武の弟、早良(さわら)親王を立てさせた。桓武は長岡京の建設を始める。桓武の治世5年目にして頼みとする重臣、藤原種継(たねつぐ)が何者かに暗殺される。この事件の首謀者の一人として早良親王は逮捕される。親王は抗議の絶食を行い、そのまま死ぬ。桓武は自分の子である安殿(あて)親王を皇太子に立てる。のちの平城天皇である。桓武は長岡京の建設を中止し、平安京を建設し始め、やがて平安京に遷都する(794年)。桓武が亡くなる(806年)と平城天皇が即位したが、桓武の時と似たような皇位をめぐるゴタゴタが繰り返される。即位の翌年、平城の弟の伊予親王が謀反の疑いで兵に包囲され、自害する。平城天皇は治世4年にして身体不調のため弟の加美能(かみの)親王に位を譲り奈良の都に移る。しかし、ほどなく自分のお気に入りの藤原薬子とその兄である藤原仲成の助言を入れ、再び権力を握ろうとして挙兵する。加美能親王は即位して嵯峨天皇になっていたが、嵯峨の政府は難なく平城上皇の軍を鎮圧(810年)。これによって嵯峨は今までの皇位を巡るゴタゴタを解消し、33年間の平穏な時代を切り開く。嵯峨は皇位継承の順序を嵯峨の次は自分の弟(のちの淳和天皇)その次は自分の子供、その次は淳和の子供、という風に定めたのだった。嵯峨は14年で譲位して弟の淳和が即位する(823年)。淳和も10年で譲位して、嵯峨の子である仁明が即位する(833年)。上皇になった嵯峨は自分の経験に鑑みて政治には口を出さず、風流を追求する日々を送った。ここに平安時代らしい宴楽の光景が繰り広げられる。とはいえ、文学の分野で幅を利かせていたのは和歌ではなく漢詩だった。この文芸サークルには弘法大師空海の姿もある。
この本には嵯峨天皇が空海とお茶したあと別れに際して贈った漢詩、七言絶句が紹介されています。
七言。 海公と茶を飲み山に帰るを送る。一首
道俗分かれて数年を経たり。
今秋の晤語(ごご)は亦良縁なり。
香茶酌み罷みて日は云(ここ)に暮れぬ。
稽首(けいしゅ)して離れを傷(いた)み雲烟を望む。
この漢詩の意味はこの本によれば
あなたとは道と俗との世界を異にしてもう数年も会っていない。この秋こうして歓談ができたのも、よきえにしである。香りよい茶をのみ終わったときはもう日暮れ。一礼をかわして別れをいたみつつ、わたしはあなたの帰ってゆくさきにたなびく雲烟をみわたす。
とのことです。茶を中国からもたらしたのがほかならぬ最澄と空海だそうですから、この場面は流行最先端、という感じなのでしょう。