4 平安京    日本の歴史(その2)

4 平安京    日本の歴史(その1)」の続きです。


840年、嵯峨の構想した平和な皇位継承が崩れ始める。淳和上皇が予定されていた自分の子、恒貞親王の即位を見ることなく死去。さらに、嵯峨自身がその2年後没してしまう。その直後に承和の変が起こる(842年)。恒貞親王が謀反を企てたという名目で、仁明天皇恒貞親王の皇太子の位を取り消し、自分の子、道康親王を皇太子にする。道康親王の母は藤原良房の妹であり、この承和の変自体が良房のでっちあげである可能性が強い。ここから奈良時代聖武孝謙の時がそうであったような藤原氏外戚になって権力を握る流れが始まる。
仁明天皇が没する(850年)と道康親王が即位して文徳天皇になる。同時に文徳天皇と、藤原良房の娘明子の間に生れたまだ生後9ヶ月の惟仁(これひと)親王を皇太子に立てる。藤原良房は54才にして太政大臣になる(857年)。ここでさらに文徳天皇が32歳で没するというアクシデントが起こる。皇太子惟仁が即位するが(858年)この時、わずか9歳である。これが清和天皇だが、当然、国政指導権は良房の手に入る。この間、律令制はどんどん崩れていく。

  • 清和天皇を巡っては良房の台頭に反抗しようとする在原業平との関係がおもしろく、それが伊勢物語の背景になっている。
    • ひとつは業平が惟喬(これたか)親王に仕えたことで、惟喬親王清和天皇の兄であったが藤原良房のために皇太子になれなかった経歴を持つ。
    • もうひとつは業平が良房の姪、高子を盗み出したことで、これも良房への反抗とみられる。良房は高子を取り戻し、何食わぬ顔して幼い惟仁親王(のちの清和天皇)の妃にしてしまう。

応天門が炎上する事件が起こり(866年)、これをきっかけに古来の名門貴族である紀氏と大伴氏が没落する。逆に良房は摂政になる。この後、良房が亡くなり、養子の藤原基経がそのあとを継ぐ。清和天皇は27歳で譲位(872年)。その子(母親は藤原高子)が即位して陽成天皇となるが、またしても9歳という年齢だった。陽成は長ずると摂政藤原基経とソリが合わなくなった。基経は陽成に迫って譲位させてしまう(884年)。まだ17歳だった。
基経を中心とする廷臣団は仁明天皇の子で当時55歳の光孝天皇を即位させる。光孝天皇は自分が単なる中継ぎであることを自覚して、基経の地位をそのままにし、自分の子供を臣籍降下し、次代の天皇を自分では選ばない意志を示した。光孝天皇が重態になると、基経は光孝天皇の内意を確かめて第七皇子である源定省(さだみ)を皇族に復帰させて皇太子に立てた。そして光孝天皇崩御に伴って、宇多天皇として即位する。この頃、陽成上皇は健在で、宇多天皇の行列が陽成の住まい陽成院のそばを通り過ぎた時「当代は家人にあらずや(今の天皇はわしの家来じゃないか)」とあざけったという。宇多天皇は基経に関白の地位を提供するが、その際の手続きの問題で宇多と基経の関係がこじれる。その関係はやがて修復し始めたがそこで藤原基経は死去する。ここに久しぶりに摂政関白のない政府が復活する(891年)。宇多天皇藤原氏とは関係の薄い菅原道真を重用し始める。