4 平安京    日本の歴史(その3)

4 平安京    日本の歴史(その2)」の続きです。


幼帝の清和、陽成、老人の光孝、次の宇多の治世初期まで続く摂関政治(古代史家は前期摂関政治と呼ぶ)は藤原基経の死(891年)によって終り、宇多天皇は老儒者菅原道真を重用する。藤原氏の次代のホープは時平であるがまだ若い。ところが宇多は菅原道真を参議に取り上げて(892年)5年にして子の醍醐に譲位してしまう(897年)。新帝醍醐を取り込んだ藤原時平はクーデタを決行。道真を大宰府に左遷させてしまう(901年)。積極的な時平のもとで国政改革が始まる。一方、道真は大宰府で2年後、失意のうちに死去する(903年)。やがて道真は死んで怨霊になったという説が宮中に広まる。藤原時平は剛毅な性格で、道真の怨霊と言われる雷が清涼殿に落ちそうになり、天皇をはじめ廷臣たちが震え上がっていても一人だけ毅然としていたが、その時平が39歳の若さで死んでしまう(909年)。いよいよ道真の怨霊に対する恐怖は宮中で深まる。時平は醍醐天皇に自分の娘穏子を女御として送り、穏子は保明(やすあきら)親王を生む。これが時平の後押しで皇太子になるのだがこの皇太子も若くして亡くなる(923年)。代わりに保明親王の子、慶頼(よしより)親王を皇太子に立てるが、これも2年後に死んでしまう(925年)。その5年後、清涼殿に落雷があり、大納言藤原清貫が雷に当たって死んでしまう。醍醐帝はショックで寝込み、病気になる。そして皇太子である醍醐の第11皇子寛明(ひろあきら)親王に譲位した(930年)のち、まもなく亡くなった。
寛明親王、即位して朱雀天皇は即位の時わずか8歳であった。ここに藤原北家による摂政が復活するが、摂政になった藤原忠平は、前期摂関政治の時の良房、基経ほどの器量もなく、若くして死んだ時平に比べても政治に対する熱意はなかった。この朱雀天皇の治世に坂東に平将門の乱、瀬戸内に藤原純友の乱が起こる。世に言う天慶年間の大乱である。この都の東西での大乱に朝廷は有効な対策を打ち出せず、結局、大乱を鎮圧したのはこの頃勢力を伸張してきた受領層であった。大乱を乗り越えた時、朱雀は19歳になっていたが、藤原忠平を摂政から関白に役職を切り替えただけで引き続き、国政を忠平に任せた。その上、朱雀は病弱でかつ男子を得ていなかったので、皇統の後継者として朱雀の弟で皇太子の、成明(なりあきら)親王が宮廷の注目を集める。
藤原忠平の次男、師輔(もろすけ)は自分の娘安子を成明親王の妃にすることに成功する。ここから師輔とその子孫の栄華が始まる。朱雀は24歳で譲位し、成明親王村上天皇として即位する(946年)。年号は天暦に変わる。天暦3年、藤原忠平が没し、村上は関白を置かないことを決める。ここにもう一度、天皇親政が実現し、村上の治世は後世「天暦の治」と呼ばれるようになる。とは言え、実際の政治において目覚しいところはない。華々しいのは宮中行事のほうである。そのひとつが宮中歌合せであり、天徳4年(960年)の内裏で行われた女房歌合せはその頂点であった。この歌合せを境に村上朝の宮廷は下り坂になる。2ヶ月後に藤原師輔が亡くなり、その4ヶ月後に内裏が炎上する。「朕、不徳をもって久しく尊位にあり、このわざわいに遭う。歎憂極まりなし」とはその時の村上天皇の言である。7年ののち、村上天皇崩御する(967年)。



これで、この本の扱っている範囲の年代の要約がやっと終わりました。最後の村上天皇についてこの本は以下のように記述しています。

かれの関心は王朝風の文雅の興隆にあった。天皇は詩賦をこのみ和歌をつくった。書を小野道風にまなび、管弦の道では筝・笙・琵琶をたしなみ、とくに筝は実頼についてまなんだといわれる。
皇后安子を中心とした生前の後宮生活も華美をきわめた。そこには皇后(安子)のほか女御(徽子女王荘子女王・藤原述子・同芳子)・更衣(源計子・藤原祐姫・同正妃・同脩子・同有序)がおり、その子女は19人であった。そして後宮には風流をわきまえる多数の女房が侍しており、この大集団が天皇文雅への好尚をささえる力のひとつであった。


この村上朝は、岡野玲子さんの漫画「陰陽師」で扱われている時代なので、私には親しみがあります。特に、女房歌合せを扱っている巻7

と内裏炎上を扱っている巻9

ですね。