くどいけど金毘羅

昨日より続く
私がいる(いた)金毘羅も、この小説の中に少し登場する。

下記に至るまでの記述では、伊勢と金毘羅が対立するものとして捉えられている。伊勢−伊勢神宮−国家側、金毘羅−野生−非秩序的(うまく対立項が作れなかった。はずかしくて「民衆側」と書けなかった。「民衆側」と書いた途端、その民衆なる抽象的なものが個々人を圧し去りそうで・・・。)

しかし皮肉にも私が見にいく憧れの鳥羽の海のすぐ側にはなんと伊勢にはあるはずもない金刀比羅宮が実は珍しくも驚異的に存在していた。そんなはずないのに! なんとまあ予想外の! でも、――それは民間信仰のものではなく江戸期に出来たのですらありませんでした。1956年、私の生れた年、私が生れてから5ヶ月後の8月に出来た、新しい讃岐本宮の分社なのです。無論、―。


それは行ってみたらあまりに新しいんですぐ気づいた。それにどこかに50周年記念の碑が建っていた。

            無論、―。
 信者が勧請したものではありませんでした。近鉄が観光政策で誘致したのでした。しかも分社という事は普通の野にある、つまり一度お札を頂いて来て祀ってしまったら後は本家の象頭山とは原則縁が切れる、つまりどう発展しようと勝手な、実に野生の金毘羅のすみかになりやすいような、そういう通常の金毘羅宮とは違い、ずっと四国の本家象頭山の影響下にある、つまり勝手な習合なんか起こりようもない正式の、しかも地元が呼んだのではない金毘羅だったのです。企業誘致のね。ですので、私はそことは一切無縁に過ごしました。だって私は自由が好きな野生の金毘羅だし、そこには何ら私の付け込む隙もなかったので。



ありゃそうでしたか――。「私はそことは一切無縁に過ごしました。」だって――。
そんな企業誘致の金毘羅に呼び出されて、こんな山ん中までやってきた私は何? しかもこんな悪い天気の中を――。



でもそんなことは関係ない。私がここが金毘羅だと思えば、それは金毘羅なのだ。現に本当に金毘羅なのだし、山の上だし。海が見えるし。

 金毘羅の仮想敵は決してデバガメや痴漢やロリコンのような小さいものなどではありませんでした。つまり相手は極端な話折口信夫です。

そうくるかー。折口信夫も勉強しておかないと、なんで彼が笙野頼子の仮想敵になるのか分からんなー。私は味方だと思っていたのだが。折口の世界もまた濃そうで―――。とはいえ、大切なのは自分の神話を持つことだ。ここからどこへ行ったらその世界につながる道が見つけられるのか。


それとも話をネコのほうに戻したほうがよいのだろうか? 漁師町はネコが多い。きっと難破除けになるのだろう。


このネコは私の写真に写るのを昔の老人のように嫌っていた。


私がネコなんて言うと、すぐエジプトのネコの女神に連想が飛んでしまう。