革命家 孫文

陸中国でも台湾でも尊敬されている孫文ですが、私は今までその実像をよく知りませんでした。それでこの本を読んでみました。読んだ感想ですが、なかなか魅力的な人物だと思いました。面白いと思ったのは孫文の文章の中に「賢人」「豪傑」の語が出てくることです。革命家、イデオローグといったもっと神経症的な(私の偏見かもしれませんが)言葉ではなく「賢人」「豪傑」という言葉は、現代にはかえって新鮮ではないか、と思います。まるで幕末みたいです。


「賢人」「豪傑」の語は例えば、1894年、孫文がハワイで結成した最初の革命団体「興中会」の宣言書に登場します。この時、孫文は29歳でした。

中国の弱体化は、いまにわかにはじまったことではない。・・・・いま列強は虎視眈々とわが国をとりまき、・・・・瓜分(かぶん、分割)の危機はまさに目前に迫って、憂うべき状態にある。・・・・それで、とくに会員を集めて中華を興し、賢人豪傑*1と協力してともに助けあい、この目前の困難をのぞき、わが中夏を安定ならしめようとするものである(堀川哲男訳「興中会章程」<ホノルル>、責任編集・小野川秀美『孫文 毛沢東』(世界の名著六四)、中央公論社、昭和五七年八版)。


「革命家 孫文」より。

また、次の文にも登場します。

 危機脱出後*2、予はしばらく欧州に留まり、その政治風俗を視察し、朝野の賢人、豪傑*3と交わりを結んだ。二年間の見聞から得たことはきわめて多かった。欧州の列強のごとく、ただ国家が富強になり、民権が発達しただけでは、なお人民を極楽の域におきえないのを、はじめて知った。そのため、欧州の志士は社会革命の運動を行なっているのである。予は、一度の苦労で永遠の幸福が得られる計画として、民生主義をとり入れ、民族、民権問題と同時に解決することを考えた。この結果、三民主義の主張は完成を見たのである(伊藤秀一訳「孫文学説」、『孫文選集』第二巻、社会思想社、1989年)


「革命家 孫文」より。

彼は「賢人」や「豪傑」と交わって自分の思想を成熟させたり革命事業を前進させようとしていたわけですが、私には、彼自身にも「賢人」と「豪傑」の資質があったからこそそれらの人々と交わることが出来たのではないか、と思えます。賢人と見える側面については多数の書を著した点に見られます。また、無類の読書家でもあったとのことです。豪傑の側面は次の逸話に表われています。1895年の広州での最初の武装蜂起(失敗した)のことです。

・・・・蜂起計画では、3000人の会党を前もって城内に入り込ませ、決起当日、主要な役所を襲撃し、同時に周辺の会党も呼応して立ち上がる手はずであった。合言葉も決まり、いよいよ決行を待つばかりというときになって、幹部の家族が塁を恐れて密告した。計画は挫折し、陸皓東らは捕らえられて処刑された。
 孫文は広州で前線の指揮をとっていた。計画が露見したという連絡が入ると、陣営は大混乱となったが、このとき孫文は沈着剛胆、的確な指示を下した。・・・・連絡に使った電報や名簿を焼け、爆弾を隠せ、明日来る予定の援兵に中止の連絡を取れ、と次々に指図した。そして、それが終わると全員に食事を取らせ、自分も腹ごしらえをした。そのあと、苦力(クーリー)の服に着替えて、群集の中に姿を消し、無事香港に脱出したという。



「革命家 孫文」より。


この本によれば孫文の目的は、中国を「世界で最も新しい、最も進歩した国家」につくり上げることだったそうです。そしてその国家を、欧米の議会制民主主義の弊害を克服し、なおかつ当時出現した社会主義国家をも超えた国家、と孫文は位置づけていたそうです。孫文の構想した国家体制がはたして真にそのようなものとして機能し得たかどうかは私には疑問ですが、その心意気はすばらしいと思います。そのような高い理想を持つ孫文なので1925年、中国の統一を目前にして死去する時に「革命いまだ成らず」という遺言を残したのでしょう。これは挫折を意味する言葉ではなく、残った同志に対する使命付託の言葉でした。

 現在、革命、なおいまだ成功せず。およそわが同志たるもの、必ず余の著わせる『建国方略』『建国大綱』『三民主義』、および『中国国民党第一次全国代表大会宣言』に依拠し、その貫徹を求め、ひきつづき努力せよ。とくに最近主張せる国民会議の開催、および不平等条約の撤廃は、最短期間内に、その実現をはかれ。これを遺嘱す!
          孫文

*1:強調は私

*2:1896年、イギリス滞在中の孫文が清国公使館に監禁されたのを、イギリス人の知人の努力で解放されたことをいう

*3:強調は私