ヴォータンの意志

一昨日、書きかけた、神々の王ヴォータンの意志についての話です。母なる女神エルダが示す神々のたそがれ(=滅亡)に対してヴォータンの意志が神々の滅亡を避けるのかと言えば、そうではなくて、ヴォータンの意志とは、その滅亡を望むということなのでした。これが私が「ねじれている」と表現した事柄です。何か私にはヴォータンがヤケになっているような気がします。
私はドイツ語がまったく出来ないので、id:wagnerianchanさんという方が訳されたセリフSiegfried ジークフリート Act III-1にたよりますが、ヴォータンが自分達の滅亡を望むに至った理由は、自分の孫であるジークフリートにこの世界を譲り渡すことに自分の希望を見出したからでした。

神々の終末は、もうわしの心を恐怖に満たさない。なぜなら、それはわし自身の望みだからだ!
かつては、激しい板挟みの苦悶にとらわれて、絶望の中で決断したことを、今、わしは心楽しく実行している。
かつて、わしは狂おしい吐き気を感じつつ、ニーベルングの男の妬みに、この世界を委ねたが、
あの素晴らしいヴェルズングの若者には、わしの遺産をくれてやるつもりだ。
わしに選ばれたが、わしのことを知らぬあの大胆きわまりない子は、わしの指示を受けず、ニーベルングの指輪を手に入れたのだ。
愛を楽しみ、妬みを持たぬ、あの気高い子の前ではアルベリヒの呪いすら、その力を失ってしまう・・・。


Siegfried ジークフリート ActIII-1」より


後の世代に対して道を譲る、あるいは、自分の経験や遺産を贈る、それはこの世の中を存続させるために大切なことで、その意味ではヴォータンの意図も分からないのではないのですが、だからといって自分達の世代の滅亡を望むでしょうか? そこにはヴォータンの自分に対する深い嫌悪があると感じます。なぜヴォータンは自分に対して嫌悪を抱くのか? それはニーベルンクの指輪の呪いが自分にはかかっている、と感じているからでしょう。ニーベルンクの指輪が何を意味するのか、この楽劇の世界では多義的な解釈を許すものなので、これ、と指し示すのは難しいですが、この指輪は邪悪なものとして扱われています。


私がヴォータンの意志に不気味さを感じるのは、この楽劇のその後の展開からです。世界を譲られたはずの(そして譲られたことについてまったく無知である)ジークフリートは、指輪を巡る人間達の争いに巻き込まれて暗殺されてしまいます。これがヴォータンの望みだったのでしょうか? しかしヴォータンは、ジークフリードに暗殺の危機が迫っても介入しません。第3夜「神々のたそがれ」ではヴォータンはもはや登場せず、他の登場人物によってその様子が語られるだけです。そこではヴォータンは自己を放棄し、ただ、滅びを待つだけの存在になっています。彼は自分の構想が崩れ去るのを見届けて、他の神々とともに炎に包まれて滅びるのです。エルダの提示する運命は成就し、ヴォータンの「滅びる」という意志もまた成就します。ヴォータンの意志が「滅びる」という一点にあるならば、何もエルダに対して「おまえは知っているのか、ヴォータンの意志が!」と誇らかに言うようなものでもなんでもなく、それは運命に対する屈服ではないでしょうか? 何とも納得のいかない話です。