松下社(まつしたしゃ)


一昨日行った神社は松下社と言って小さな神社で、鎮座されている場所もあまり人がいない場所ですが(ただし、伊勢・鳥羽間の幹線道路沿いなので車だけはよく通過している)、この地方での蘇民将来(ソミンショウライ)の信仰の発祥地と言われています。私は11年前に伊勢に移ってきた時に、なぜここに蘇民将来の伝説が? と不思議に思いました。あれは確か播磨国風土記に出てくる話じゃなかったかしらん、と・・・・・。


昨日改めてWikipediaで調べたところ、播磨国風土記というのは私の記憶違いであって、正しくは備後国風土記逸文でした。とはいえ備後ですから広島県です。

しかし、同じWikipediaの記事に、蘇民将来の伝説は日本各地にあるとの説明がありました。なら、別にここにも蘇民将来の伝説があっても不思議ではない、と思い直しました。

蘇民将来の伝説というのは、由来がはっきりしない伝説で密教系とも朝鮮系とも言われています。備後国風土記逸文によれば以下のような内容です。

昔、北の海に居られた武塔(ムトウ)の神は、南の海の神の娘を妻にしようとお出かけになった。が、そこにたどり着く前に日が暮れてしまった。そこで途中で上陸されたのだがその所に将来(ショウライ。このショウライというのが何を意味するのか不明)が2人いた。兄の蘇民将来(ソミンショウライ)は非常に貧しかったが、弟の将来(コタンショウライという名だという説もある)は裕福で、家や倉が百もあった。さて、武塔の神はまず弟の将来に一夜の宿を乞われたが、弟の将来は宿を貸さなかった。次に兄の蘇民将来に宿を乞われたところ蘇民将来は宿を貸した。蘇民将来は貧しいので粟柄を使ってお客様が座る場所にし、粟飯などでおもてなしをした。武塔の神は一晩泊ってのちに南の海に向かわれた。


その後、何年か経って、武塔の神は南の海の神の娘との間に儲けた八柱の子を率いて蘇民将来の家に戻ってこられた。そしておっしゃるには「我、将来に報答(むくい)せむ。汝(いまし)が子孫(うみのこ)その家にありや」とお問いになった。蘇民将来は「娘が一人おります」と答えた。すると「茅の輪をもちて、腰の上に着けしめよ」とおっしゃった。言われる通りに茅の輪を着けさせると、その夜に蘇民と娘一人を除いて、他の人々を殺してしまわれた。武塔の神は「吾は速須佐雄(はやすさのを)の神なり。後の世に疾気(えやみ)あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ」とおっしゃった。



伊勢地方ではこの伝説に基づいて、このような注連縄(しめなわ)を軒先に飾ります。この写真にあるように「蘇民将来子孫家(ソミンショウライうみのこの家)」と書かれています。つまり、蘇民将来の子孫の家であるから、疫病から遁れさせてくれ、ということです。松下社はこの注連飾りの発祥の地だということです。「蘇民将来子孫家」と書かれるほか、蘇民将来の一門であるという意味で「将門」と書かれる場合も(理論上は)あるのですが「将門」というと「平将門」を連想させるのをはばかって(京都に近いので「平将門」は伝統的に悪いイメージなのです。関東では伝統的に良いイメージだと思うのですが・・・)、「将門」と音が同じ「笑門」と書かれる注連縄もあります。






この向こう側に蘇民将来を祭る社があります。







境内には大きなクスノキがありました。




伊勢神宮とは系統の異なる伝統です。