アナログとデジタルを包括する視点

杉本舞氏の論文、ウィーナーの「サイバネティクス」構想の変遷―1942年から1945年の状況―を改めて読んで次の個所に到った時、これが、私がサイバネティクスというものについて長年(30年以上も!)ひっかかっていた事柄を、明確に表現してもらえた記述に思えた。

結局、1945年に形成された「機械と生物とのアナロジー」に注目する研究者集団のうち、特に工学に関わる研究者には、大きく二つの流派があったと言えよう。伝統的な通信工学や戦時中の予測理論研究に連なる、連続的でアナログなデータを扱う工学を専門とするグループと、電子デジタル計算機の研究や、神経網における論理回路の研究に連なる、離散的でデジタルなデータを扱うグループである。前者はウィーナーに代表され、後者はフォン・ノイマンに代表されると言えよう。ウィーナーが学際研究の必要性の名のもとに当時の主要な研究者を集めたこれらの会議には、この異なる二つの流儀が同居していたのであり、これは当時の情報工学の状況を反映したものと考えられる。


「ウィーナーの『サイバネティクス』構想の変遷―1942年から1945年の状況―」 杉本舞著


この記述によって自分の頭の中のモヤモヤはだいぶ整理されたのだが、それでもアナログとデジタルという、この両者をつなげる視点はないものだろうか、ということが気になり続けている。ウィーナーは大風呂敷を拡げて、両者をひっくるめてサイバネティクスと呼び、そのようなものを構想していたのだし、上記引用でデジタル流派の代表と言われているフォン・ノイマンにしても、少なくとも一時期は、下の引用にあるようにデジタルとアナログ(つまり解析学)との結合を夢見ていたようにみえる。

このように、オートマトンの論理は、二つの関連分野で、現在の形式論理学の体系と異なるであろう。
1.「論理の鎖」、すなわち操作の鎖の実際の長さを考慮しなければならない。
2.論理学の演算が、すべて低くはあるが0でない可能性をもった例外を許容する演算過程によって処理されなければならないであろう。
これらはすべて、過去および現在の形式論理学に比べてはるかに固定的でない「全か無か」的性質をもった理論に帰着するであろう。これらの理論は、それほど組合せ理論的ではなくて、非常に解析的な性格をもっているであろう。実際、この新しい形式論理学の体系が、過去に論理学とほとんど接続していなかったもう一つの体系に近づくであろう、ということをわれわれに信じさせるような指標がたくさんある。それは、最初にボルツマンから受け取った形式では熱力学であり、最近の展望では、情報を扱ったり判断したりする理論物理学の一分野である。その技術は実際に、組合せ理論的であるというよりははるかに解析的であって、このことはまた私がさきに指摘した点の例証になっている。


フォン・ノイマン「人工頭脳と自己増殖」 品川嘉也訳


だが、このような結合の試みは今のところ、あまり成功していないようにみえる。