ギリシア歴史・神話紀行 文・写真:巌谷國士
- 作者: 巖谷國士写真・文
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2004/08/21
- メディア: 単行本
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その中のひとつがサントリニ島のアクロティリ遺跡の発掘を指揮した故マリナトス教授についての記述です。私は旅行ガイドなどでサントリニ島がなぜプラトンのアトランティス伝説に結び付けられるのか不思議だったのですが、というのはアトランティスは「大陸」あるいは「大きな島」と言われているのにサントリニ島は(先史時代の大爆発の前であっても)それほど大きな島とは思えず、そのギャップが気になっていたからです。ところが以下のような記述を見つけてこの疑問が氷解しました。
1930年代にアテナ大学のスピリドン・マリナトス教授は、かつてクレタ島とサントリーニ島はおなじ大きな島(誇張すれば「大陸」)の部分であり*1、そこがまさにプラトンのいわゆるアトランティスだったのだ、という説を発表している。クレタ島のミノア文明がとつぜん滅亡したのは前15世紀なかばのことで、しかもサントリーニ島の大噴火による滅亡と同時だったはずだ、という推定にもとづく大胆な仮説であった。
だが、この説はのちにくつがえされてしまう。今日ではミノア文明の滅亡の因も、当時すでにギリシア本土からこの島に進出していたミケーネ人の攻撃にあったとされる。他方、サントリーニ島の火山大噴火の年代もまた、地質学者や生物学者を動員した研究・調査によって、前15世紀ではなく、前17世紀であったことがほぼたしかめられているからだ。
つまり、最初に発表されたアトランティスとサントリニ島を結び付ける説では、クレタ島とサントリニ島を含む大きな島が想定されていたのだが、その後の研究の進展によってこの説は成り立たなくなった、ということらしい。しかし、観光のキャッチフレーズとしては残っている、ということなのだろう。それにしてもここに登場するマリナトス教授はこの説の発表後30年以上もたって、サントリニ島のアクロティリ遺跡を掘り当てたのですから、その根性はなかなかのものです。
私が最近興味を持っているアクロティリ遺跡の人々と同じ民族、つまり線文字Aを使用していた民族については以下のように書かれています。このような、最近の考古学の成果を取り入れつつ平明に表現された一般向けの記述にはなかなかお目にかかることがありません。
ミケーネ人がいわゆるギリシア人(ドーリス人)に先行するギリシア系の民族だったとは知られているが、それよりも前のクレタ人(ミノア人)が何者であったかはまだわかっていない。ただエウロペの逸話に(たまたま?)語られているように、東方から来た人々――少なくとも東方との関係を保っていた人々であることはまちがいない。細腰のクレタ人はギリシア本土から徐々に入ってくる無骨なミケーネ人を兵力として利用していたが、やがて彼らに宮殿をうばわれ、滅ぼされることになる。その結果、キプロス島を経由してアジア西岸へ逃れていったことはじゅうぶんに考えられる。
想像を刺激する記述です。
*1:強調はCUSCUS