線文字A、ルウィ語説

線文字Aが表している言語が、印欧語の一種であるルウィ語(死語)である、という説は英語版のWikipediaに載っていて、それを読んだ時にはあまり関心がなかったのですが、風間喜代三氏の「印欧語の故郷を探る」

を読みなおした時に、それを補強するような記述に出会ったので、ここに記しておきます。なお、ルウィ語とはヒッタイト語に近い言語で、印欧語族アナトリア語群に、ヒッタイト語のほかリュディア語、リュキア語と一緒に属する言語である、ということです*1


まず、Wikipediaの線文字A(Linear A)の記述から

ルウィ語
1960年代から、線文字Bの音価に基づく理論が、線文字Aの言語はルウィ語に近いアナトリアの言語である可能性があることを示唆している。1997年、ガレス・アラン・オウエンはクリティカ・ダイダリカという題のエッセイ集を公刊し、線文字Aがルウィ語の初期同系語を表しているという観点を支持している。オウエンはこの主張を既知の線文字Bを用いて彼が読むことが出来る少数の単語の推定される印欧語の、ただしギリシア語ではない語根や、特定の線文字Aの記号のキプロス語の音価を根拠にして行っている。彼はその本で、線文字Aの体系的な解読を要求しておらず、ルウィ語仮説は問題を解決するよりはむしろ、議論を引き起こすことを意図した、と述べ ている。
しかし、ミノア語の起源がルウィ語であるという理論は以下の理由から幅広い支持を得ることは出来なかった。


一方、風間喜代三著「印欧語の故郷を探る」にはこんな記述があります。

現在のトルコの南西部にあって非常に古い先史時代の遺跡を残すベイチェスルタンの、紀元前二千年ころの層から出土した粘土の印章に認められる象形文字が、後のルウィ語の話手のもったものと同じ文字の伝統につながるとすれば、彼らは後のヒッタイト語の形成者たちとは別個の集団として、この地に侵入してきた人たちと考えられる。彼らはヒッタイト語の話手たちとのかかわり以上に早くから西のほうに目をむけていた。というのは、古代ギリシアにはLarissa*2とかParnassos*3のように、-ss-という接尾辞を持った地名が、Corinthos*4のような-nth-をもった地名とともに、数多くみられる。そして、同じこの接尾辞を持った形が、ヒッタイト文献の記録する小アジアの地名にも多い。例えば、アルザワ国のなかにもApassa, Hattarassaなどがある。これはルウィ系の言語の話手が、後のギリシア人の地に早く進出していたことをうかがわせるものである。歴史時代のギリシア語が、言語としては印欧語の形態を保ちつつ、多くの外来語の要素を加えて形成されたものであることを思うと、その中には小アジアからもかなりの要素が吸収されたに違いない。


上の「印欧語の故郷を探る」の引用では、線文字Aの言語がルウィ語である、とは述べていませんが、ギリシア人がギリシアに到着する以前にルウィ語の話手がギリシアに住んでいた可能性を示唆しています。そしてクレタ島についても、私は思うのですが、ミノア時代の宮殿の遺跡で有名なクノッソス(Knossos)という、やはり-ss-を持つ地名があります。これはクレタ島の原住民がルウィ語の話手であったということを示しているのかもしれません。


これはサイラス・ゴードン博士の、線文字Aが北西セム語である、という説と真っ向から対立します。

*1:風間喜代三著「印欧語の故郷を探る」による

*2:ラリッサ

*3:パルナッソス

*4:コリントス