「誰かがいつかミノア語の解読に成功するだろう。」 サイラス H. ゴードン(Cyrus H. Gordon)とミノア線文字A(1)

グレイ A. レンズバーク(Gray A. Rendsburg)著

グレイ A. レンズバーク(Gray A. Rendsburg)著の「"Someone will succeed in deciphering Minoan"--Cyrus H. Gordon and Minoan Linear A」
http://jewishstudies.rutgers.edu/component/docman/doc_view/90-someone-will-succeed-in-deciphering-minoan-cyrus-h-gordon-and-minoan-linear-a?Itemid=158
を翻訳してみます。

サイラス H. ゴードンのミノア語に関する最も早期の公刊された論文は1957年に現れるが、この問題についての彼の熟考は早くも1931年には始まっていた。その年の6月、若いゴードンは近東への最初の訪問のために船に乗っていた。彼自身の言葉でこの話を語ろう。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2a/0726_La_Can%C3%A9e_mus%C3%A9e_lin%C3%A9aire_A.JPG

ある6月の夜わたしたちはクレタ島の海岸に沿って航行していた。私はデッキで一団の仲間と座っていて、自分の考えをいくらか以下のように表現するように駆り立てられた。「この島から出土したミノア語碑文は明日の解読者たちにとっての主要な課題である。必要な知識を持った誰かが、熱心で誠実な仕事によっていつかミノア語の解読に成功するだろう。」 思い返せば、それは地中海の月夜で旅の仲間と語るものではなかったと思う。私はデイヴィスという名の中年のビジネスマンによって恥をかかされ黙らされた。彼は不快な様子で私を見つめて言った。「おまえの言っていることは高校の卒業生総代のように聞こえるよ」 25年後のこの問題に関する私の活動が四半世紀の熟考を(その多くは潜在意識的にであるが)その背後に持っているという事実を明らかにするためだけにこの出来事に言及した(ゴードン1971:154-5)*1



1956年まで早送りしよう。それまでの年月にゴードンはウガリット語に関する彼の標準的な業績の3つの版(ゴードン 1940, 1947, 1955c)とウガリットの神話と叙事詩の標準的な翻訳(ゴードン 1949)を公刊していた。よく知られているように、ウガリット語に関するゴードンの業績はその言語と文学に関する寄与にとどまらなかった。ウガリットヘブライ語聖書の背景についての計り知れないほど貴重な資料を提供するカナーンの文学の主要な情報源にとどまらないことをゴードンは理解した。ゴードンにとって、ウガリット語はヘブライ世界とギリシア世界に架かる橋なのだった。よって同じ時期にゴードンはこの2つの文化の共通な背景に関する独創的な研究を生み出した(最も重要なものとしてゴードン1955aを参照)。さらに、これらの世界を結び付ける拠点はクレタ島であったことがゴードンには明らかになってきた(kptrはウガリットの美術工芸の神であるコタル・ワ・ハシスの故郷である。ギリシアパンテオンにおける彼の対応物はヘパイストスで、彼の故郷はやはりクレタ島である。聖書のフィリスティン人(ペリシテ人)はカフトルからカナーンへ移住した、など)。この特別な話題における他のものはゴードンのウガリット語に関する、そしてギリシア文明とヘブライ文明の共通の背景に関する業績で検討されているので、これらの主題について私がさらに述べる必要はない。それでもゴードンの世界のどの部分も他の部分から分離していないことが明らかであることを指摘する必要がある。ミノア語に関するこの非凡な学者の業績は無から現れはしなかった。それは彼のウガリットエーゲ海の相互接続に関する業績を踏まえることによってしか理解できない。

*1:この旅行はゴードンの本「忘れられた文字」(ゴードン1971)の自叙伝的な節pp144-68にあらましが出ている。ここでの私の記述はこれらのページに多くを負っている。しかし、この本の改訂版(ゴードン 1982)にはこの個所は含まれていなかった。