アテナ・コンプレックス
私の心にはアテナ・コンプレックスとでも名付けられそうなものがある。幼少の頃からギリシア神話に登場する女神アテナが好きだった。ラジオで聞いたオッデュセイアでのオデュッセウスとアテナ。星座の物語で知ったペルセウスとアテナ。大学になってから知ったソフォクレスの悲劇「アイアース」に描かれる、人間とは隔絶した高みにいるアテナ(ここでもオデュッセウスとアテナ)。
新婚旅行の時でもわざわざ女神アテナに新妻を紹介した(アテネの国立考古学博物館で)ぐらい、私は律義にアテナを心にかけていた。
あるいは、新プラトン主義者ヒュパティアは私にはアテナだと思える。あるいは、ユルスナールが「ハドリアヌス帝の回想」で描くプロティナにも、私はアテナの姿を重ねているのかもしれない。
わたしが到着してほどなく、遺骸は、いずれローマで行われるはずの凱旋葬までの仮の儀式によって、海岸で火葬された。夜明けに行われたこの簡素な儀式にほとんどだれも立ち会う者もなく、トラヤヌスを個人的に長らく世話してきた婦人たちの家庭的な最後の奉仕のひとこまにすぎなかった。マティディアは熱い涙にむせび、火葬の薪の炎に揺れる空気はプロティナの顔かたちを曇らせゆがませた。平静でよそよそしく、熱病のため幾分やつれた彼女はいつものように冷徹で計り知れなかった。アティアヌスとクリトンはすべてがしかるべく燃え尽きるまで見守った。小さな煙が、翳りない朝の青白い大気のなかにひろがって消えた。
わたしの友のだれ一人として、皇帝の死に先だつ数日間のできごとについて口にする者はなかった。彼らの掟は明らかに沈黙を命じていたし、わたしの掟は危険な質問をせぬことを命じていた。
トラヤヌス帝の死と不明確な後継者指名によって自分(=ハドリアヌス)が皇帝になった場面で
- 作者: マルグリット・ユルスナール,多田智満子
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