1956年、マイケル・ヴェントリスとジョン・チャドウィックは彼らの重要な著書「ミュケナイ時代ギリシア語の文書(ヴェントリスとチャドウィック 1956)」を公刊した。現代の考古学的研究と文献学的研究において重要なこの事件の意義を明らかにするためには少々の背景が必要である。1893年に始まり、その後の数十年の間、サー・アーサー・エヴァンスはクレタ島のさまざまな遺跡を発掘し、伝説の王ミノスにちなんで彼がミノア時代と呼んだ古代クレタ島の偉大な青銅時代文明を発見した(エヴァンス 1921-36は彼の最も総合的な業績である)。彼の重要な発見の中に、2つの異なるが非常に類似している文字で書かれたものに覆われた数百の粘土板があった。エヴァンスは2つの文字のうち古い方を線文字A、より新しいほうを線文字Bと呼んだ*1。記号の数から、全ての学者によって両方の文字は音節文字である(つまり、アルファベットではない)と推定された。
エヴァンスの発掘から半世紀後、これらの文字は未解読のままであった。この構図を変えたのは若くて聡明なヴェントリスであった。彼は熟練の建築家であったが、古典語を学んでいた。ヴェントリスは自分の人生の目的をクレタ島の文字を解読することにした。彼は1950年代に線文字Bを解くことに成功し、次に自分の事業において、プロの文献学者であるチャドウィックと共同した。ヴェントリスとチャドウィックは線文字B文書の言語はギリシア語であり、鉄器時代の古典ギリシア語ではなく、彼らがミュケナイ時代ギリシア語と呼んだ後期青銅器時代に由来するより早期の形であると結論した。彼らの業績は熱狂的に歓迎され、それは古代ギリシアの言語と文化の研究に新しい展望を開いた。いたましいことに若いヴェントリスは1956年に交通事故で死亡したが、彼は自分の人生の目標を達成していた。その結果、解読の完全で詳細な分析を含む1956年の「ミュケナイ時代のギリシア語文書」の出現は、まさに大事件であった。
ゴードンは1956年12月にヴェントリスとチャドウィックの本を得、すぐに線文字A文書の解読に照準を合わせた。言いかえれば、クレタ島をハブとするギリシアとウガリットとイスラエルの間の相互接続に関する10年間の研究の頂点において、ヴェントリスとチャドウィックの業績によって前へ進む刺激を受けたことはいまやゴードンの幸運であった。ゴードンの方法はミノア語の研究に関わった人々と同じく、線文字A文書に線文字B文字の音価を適用するというものであった。上述したように、両方の文字は非常に似ているので、後者、つまり既知のものの音価は前者、つまり未知のものを解明するのに利用出来る。
実際すでにヴェントリスとチャドウィックはそれが事実であることに気づいていた。確かに彼らは線文字Aの若干の言葉を読み始めたが、これらの言葉が線文字Bのようなギリシア語ではなく、何か別の言語に属することを理解した。例えば、ヴェントリスとチャドウィックはいろいろな種類の壺について線文字Aで書かれた5つの言葉が、su-po、ka-ro-pa, pa-pa, su-pa-ra、pa-ta-qeであり、それらの全てが壺の絵文字と一緒にあったことを記している*2。彼らは線文字Aでの「合計」を示す語はku-roであること、それは行政上の粘土板の最後にこの言葉が繰り返し使用されることからすぐ分かる事実である、も理解した。
セム語に精通した人にとって、特に20年間ウガリット語を集中的に研究してきた人にとって、これらの単語のうちの4つの同定はむしろ自然にやってきた。よってゴードンが壺の名前のうちの3つにウガリット語のsp, krpn, splに相当するものを見、ku-roにセム語のkull(全て、総計)に相当するものを見たとしても驚くべきことではない(線文字AとBの文字ではrとlは区別されないことに注意。これはエジプト語とエブラ語についてもある程度言えることである)。線文字A粘土板の言語がセム語であるというゴードンの主張のための基礎を形成するのはこれら4つの単語であった。その結果は雑誌Antiquityの編集者O. G. S. クロフォードによって「驚くべき新発見のホットニュース」として歓迎された、その雑誌に載せた短い記事だった(クロフォード 1957:123)。さらに、純粋な言語学的問題を越えて進むために、線文字Aをセム語であると同定するゴードンの研究は、古代クレタ島の高度な文明の創造者であるミノア人はセム人であったに違いないということを意味した。
ゴードンはミノア語に関する自分の研究を続けすぐにさらに2個の単語ga-ba「全て」とa-ga-nu「ボウル(椀)」を同定した。これら2つの単語はアッカド語から知られたので、ゴードンはミノア語は東セム語であるというより特殊な結論に達した(ゴードン 1957a)。アッカド語のテキストははるか遠くアナトリア、ウガリット、エジプトなどで発見されたのと同様に「アッカド語の」テキストが異なる文字、つまり線文字Aで書かれているがクレタ島で発見されることもあり得た。その一方で他の学者たちはゴードンが彼の絵に組み込んだ詳細に寄与し始めた。このようにして小麦の決定詞とともに書かれたku-ni-suがアッカド語の単語kunnisuと同じであり、「と」を示す単語が「u」であり、これもアッカド語として理解出来ることが明らかになった。