「誰かがいつかミノア語の解読に成功するだろう。」 サイラス H. ゴードン(Cyrus H. Gordon)とミノア線文字A(3)

グレイ A. レンズバーク(Gray A. Rendsburg)著

 ゴードンは1961年に公刊された2冊の本、W. C.ブライス「クラスAのミノア線文字で書かれた銘文(1961)」シドニー・デイヴィスの「ファイストス円盤と、プシクロとファイストス出土のエテオクレタ語銘文(1961)」を受け取るまでの数年間、東セム語の道を辿り続けた。これらの本のうち最初のものは特に重要であった。この時までゴードンと他の人々は線文字Aについてのエヴァンスの最初の発刊によって研究していた。ブライスの業績は大きな改善であった。というのはそれは写真だけでなく明確な線描と重要な索引が含まれていたからである。ゴードンの言葉によればブライスの本の出現は元気の出ることだった」(ゴードン 1971:163)。より重要なことは、ブライスの本はゴードンに、以前可能だったよりも多くのテキストを読むことを可能にした。ゴードンが同定した新しい単語の中にはki-re-ya-tu「町」とre(つまりle)「へ」がある。さらに、クノッソス出土のピトスがya-neという銘に覆われていたのに気づいた。疑いもなくこれは内容物「ワイン」という単語であった。過去数年の間ゴードンがコースから外れていたことを気付かせたのはこれらの単語と、これらに似た単語であった。これらの単語はアッカド語では現れないので、それらは完全に西セム語である。ゴードンの次の重要な記事はこの情報を全て含みミノア語が西セム語であるという同定を強く主張した(ゴードン 1962b)。この時点からゴードンはこの主題に関する一連の記事を作成し続け、ミノア線文字Aの言語が西セム語の方言であることを説得力を持って主張した。
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デイヴィスの本はゴードンを別の方向に向けた。デイヴィスはミノア語はヒッタイト語であると主張し、よってゴードンの結論に反対であったが、彼は重要な寄与を行った。デイヴィスはクレタ島で発見された銘文資料の全シリーズについて1つの連続体を見ようとした。彼は線文字A粘土板とファイストス円盤(唯一のテキスト)とずっとのちのエテオクレタ語資料の全てが同じ言語を表していると信じていた。デイヴィスにとってこの言語はヒッタイト語であったが、ゴードンはそれを受け入れられなかった。しかしデイヴィスの方法はゴードンにエテオクレタ語テキストに取り組むように導いた。これらのテキストはギリシア語のアルファベットで書かれているのでそれ自体解読を必要としなかったが、その言語はギリシア語ではなかった。さらに、エテオクレタ語テキストのうち2つが2言語であり、エテオクレタ語と並行してギリシア語が書かれていた。ミノア語テキストは西セム語を表しているという自分の新たな理解で武装して、ゴードンはエテオクレタ語テクストを西セム語として同様に解明し始めた(ゴードン 1968a)。エテオクレタ語テキストは実際のところ、ギリシア語やラテン語の文字で書かれたフェニキアカルタゴのテキストと似ていないこともなかった(ゴードン 1968参照)。


 ゴードンは「ミノア語のための証明(1966)」と題した包括的な論文でミノア語とエテオクレタ語に関する彼の研究を総合した。一緒に、ウガリット語やヘブライ語でよく知られているさまざまな個人名を除いて約50個ほどの単語がこれらのテキストの中から同定された。より目覚ましいことには、以前の記事の若干ですでに示したように、ミノア語のフレーズ全体が読めるようになり、エテオクレタ語の場合には文章全体が読めるようになった。
もちろんゴードンは言語をけっして言語自身の手段としては見ず、文化を理解するためのそして「大きな絵」を理解するためのキーとして見ていた(ゴードン 1955b)。彼にとって、クレタ島の言語の証拠は古典時代を通してこの島にセム人が存在していたことを示していた。ミノア人は近東の大陸から(たぶんレヴァントから、あるいはエジプト・デルタから)青銅器時代のある時期に移住してきたセム人であった。青銅器時代の終わりになって彼らは、ミュケナイギリシア人の存在と力の増大によってクレタ島を追い出された。線文字A粘土板を書いた人々の子孫は海の民の動向(フィリスティン人など)の一部であり、彼らは大陸に戻り、最初にエジプトを攻撃しようと試み、次にレヴァントに落ち着いた。しかし他の「その後のミノア人」はクレタ島に残り、後期古典期まで彼らのセム系言語を使用し続けていた。エテオクレタ語の板の年代は約紀元前500年から紀元前300年に定められ、ネロの時代にクレタ島セム系言語に関する証拠も存在する(ゴードン 1981)。
読者は疑いもなく気付いているように、ゴードンがミノア語をセム語として解読したことは大きな論争を引き起こした。若干の学者はミノア人はセム人であるという見方を喜んで受け入れた。よい例はアルマス・サローネン(1966)である。彼はミノア語の証拠を彼の重要な著作「Die Hausgeräte der alten Mesopotamier」に組込み、その索引でミノア語をセム語に分類した。もうひとつの例はフレデリック E. L. テン・ハーフ(1975)であり、彼はハギア・トリアダテキスト11bを(ヘブライの形式でよりなじみのある)śār「チーフ、支配者」やrôzēn「王子、支配者」のような役人へ日用品を分配することの記録として読むことを提案した。